14.デビュー戦Ⅰ
九月三十日、ラスベガスの空は真っ青に晴れ上がった。
ロードワークがないため二人は九時に起床した。
二人とも昨晩はぐっすりと眠れた。浅利は腹が減って目を覚ました。
スパゲディをつくり朝食をとった後、近所を散歩して、アパートに帰って休んだ。
会場入りは夕方の予定だ。
何がなんでもKOで勝ってやる、浅利はそう思っていた。
浅利は気持ちが変に高ぶることもなく、平常心でいられる自分を確認して、ワールドジムのスパーリング相手に比べれば、今日の相手はたいしたことないはずだ。
いつも通りやれば絶対に勝てる、ベッドに寝ころび天井を見つめながらそう思い続けた。
酒井は、ここ数週間の間、何度も試合の夢を見ていた。
自分が勝った試合はひとつもなかった。
弱い相手が夢に登場するとパンチを出しても出しても相手は倒れなかった。
そして強い相手が登場すると決まって倒されている、そんな夢だった。
あんなふうにならなければいいけどな・・・。
周りがみんな勝てる勝てる、と励ましてくれるが、それでもし負けてしまったらマズイな、そんなことをあれこれ考えていると眠れなくなった。
気晴らしにテレビを点けた。
英語で意味の分からないことが、かえって良かった。
ボーッとながめながら何も考えないよう、過ごした。
五時になった。
「そろそろ行こうか」
五時半に会場に入った。
アラジンホテル内の劇場では、照明や音響の調整が行われていた。
普段コンサートやショーで使われている劇場がボクシング会場につくり変えられているわけだ。
リングはステージ上に設置され、二百人ほどが座れるリングサイド席があり、客席はリングを支点に扇形に広がっている。
「おお、なんか雰囲気があるね、あそこでこれから試合するのか」
「昨日見た感じとは大分違うな、これだけ観客が入ったらすごいだろうな」
「前座は全然入らなかったりしてね、その方がアガらなくていいか」
「いやたくさんいた方が俺は燃えるね」
そんなことを話しながら控え室に向かった。
選手の控え室はリングの裏手にあった。ボクシング専用の会場ではないので、暗幕で区切られた三畳ほどの部屋が六つ用意されていた。
浅利と酒井は同じ部屋だった。
セコンドは春日井とワールドジムからトレーナーのケニー、そして今日のために日本から駆けつけた幡野の三人が付くことになっていた。
ワールドジムからはほかのトレーナーや選手たちも応援に駆けつけていた。
六時過ぎ、試合のプログラムが配られた。
第一試合 KIMITAKA SAKAI VS TERRY LOPEZ
(4ROUNDS CRUISER WEIGHTS )
第二試合 JOHN BRYANT VS KELCIE BRANKS
(6ROUNDS JUNIOR WELTER WEIGHTS )
第三試合 RICK ROUFUS VS DINO SAUCEDO
(6ROUNDS CRUISER WEIGHTS )
第四試合 ROSS THOMPSON VS FRANCISCO MENDEZ
(8ROUNDS WELTER WEIGHTS )
第五試合 BRAIN LASPADA VS JIMMY BILLS
(CO-MAIN EVENT 10ROUNDS HEAVY WEIGHTS )
第六試合 JORGE LUIS GONZALES VS JASON WALLER
(MAIN EVENT 10ROUNDS HEAVY WEIGHTS )
第七試合 KAZUHIRO ASARI VS FELIPE ROCHA PARRA
(4ROUNDS LIGHT HEAVY WEIGHTS )
「なんだ、話が違うじゃないか」
浅利が大きな声をあげた。
昨日、計量の時には、浅利が第一試合、酒井が第二試合と聞かされていた。
しかし、当日のプログラムでは酒井が第一試合、浅利はメインイベントの後、第七試合に組まれていたのだ。
浅利は第一試合に登場して華々しく勝つ自分をイメージしていたので、少しガッカリした。
第七試合なんて、前の試合が終わったらみんな帰ってしまうんじゃないか、客のいないところで試合をするのは物足りないな、そんなふうに思ったのだ。
酒井は前々から一番にやりたいと考えていたので、これは嬉しい変更だった。
長いこと控え室で待っていると余計なことをあれこれ考えすぎて逆効果になってしまう、浅利さんには悪いけど自分が七試合目にならなくて良かったと、ホッとしていた。
控え室に入ってから、時間はゆっくりと過ぎた。
春日井も幡野も時計に目をやり、さして時間が過ぎていないのが分かるとタバコの火を点ける。
そんなことが何度か繰り返された。
もうここまできて、選手にあれやこれや言うことはない。気持ちを高めて、集中して、リングへ向かうだけだ。
ようやく六時半になった。酒井はバンテージを着けた。
ケニーが強さを確認しながら、ひと巻き、ひと巻き、丁寧にゆっくり巻いた。
浅利が酒井に、
「会場前に行列ができてるよ、こりゃけっこう入るよ酒井、良かったな」ニコニコしながらそう言った。
「そう」
酒井は表情を変えずに返事をした。
浅利と違って客がどれだけ入ろうと関係なかったし、そんなことを考えている精神的な余裕はなかった。
七時、開場によって客席が埋まり始めた。控え室の方にもざわめきが聞こえてきた。
そろそろか、会場入りしたときよりも胸がグッときつくなってきた。
もう、早く始まって欲しい、酒井はそう思った。
このままだと緊張しすぎてダメになってしまうかも知れん。
唾を飲み込んだ。 心臓がいつもよりバクバクしている。
あと三十分だ。ジムのスパーリングの相手をしてくれた選手がやってきて親指を一本だして「大丈夫、頑強れよ」といった仕草をした。
酒井は強ばった顔でウンウンと二度うなずいた。
七時十分、トランクスをはいた。オレンジ色の鮮やかなトランクス。左のすそに佐藤の運営する「ビデオ販売会社」の文字が入っていた。
しかし会場に佐藤の姿はなかった。
佐藤はデビュー戦は必ず見に行くつもりでいたが、どうしてもはずせない商談と重なってしまった。
試合の正式決定が十日前であったことも、スケジュール調整がつかなくなった原因だった。
一泊だけでもいいと飛行機の便を調べだが、日本からラスベガスへの直行便はなく、やむなくデビュー戦に立ち会うことをあきらめたのだ。
昨日の夜、佐藤は電話で二人に「いつも通りやること」そして日本を発つ前にも言った「結果はともかくベストを尽くすように」という言葉を送った。
七時二十分、酒井はシャドウをはじめた。
身体を動かすとだいぶ緊張がほぐれてきた。
十分ほど、酒井は自分のパンチの軌道を確かめるようにシャドウを続けた。
リング上でアメリカ国歌が唱われていた。
「さあ、いこうか」ケニーがみんなをうながした。酒井の肩に白いタオルがかけられた。
赤コーナーの花道を春日井、酒井、幡野、ケニーの順で進んでいった。
リングまでおよそ三十メートル。
東洋人の重量級の選手を観客が物珍しげに見ていた。
コーナーについた。
春日井が持ち上げたロープの間を、酒井は身体をくぐらせてリングへ入った。
口笛と歓声。照明がまぶしかった。
集中しろ、酒井は自分にそう言い聞かせた。
リングアナウンサーが二人の選手の紹介を始めた。
対戦相手のロペスは顔にペイントし、サングラスをかけ奇声を発してコールを受けた。
ふざけたヤツだ、酒井はそう思った。
春日井と幡野が何か言っていたが、ほとんど耳に入らなかった。
レフェリーの注意が終わってコーナーに戻ったとき、クリスチャンらしく自然と胸の前で小さく十字をきった。
試合開始の鐘が鳴った。
様子を見よう。まずジャブからだ、そう思った。
中央へ出て、軽く左を出した。ところがロペスは酒井の様子を見るそぶりもなく、ズンズンと前へ出てきた。
目をカッと見開き闘争心満々といった顔が追ってきた。
おっ、と思う間もなく左フックからボディがきた。かわした。身体をつけた。
その離れ際にまた左フック、そして右ストレートに続いて左がきた。
ガン、ガン、というショックを頭に感じた。
なんだコイツ、はなから勝負にきてるじゃねえか。
酒井は慌てた。クリンチしようとしところへまたロペスの右フック。
左はかわした。ワンツーを出した。動きが読まれていた。
難なくウィービングでよけられ、右から左、そしてまた右ストレートがきた。
最後の一発が顔面にグワンという衝撃をもってきた。
クリンチだ。そう思った。身体を寄せようとした。
ストレートがまたきた。左フックを目の端にとらえた。
あっと思ったときは頬骨の下当たりに熱い衝撃があり、顔が大きく横へもっていかれた。
まずい。春日井はそう思った。
酒井の右のガードは全然なっていない、慌てて何もかも忘れてしまっているようだった。
「酒井、ボクシング、ボクシング、動いてボクシングをしろ」。
大きな声をあげていた。
酒井の動きは普段とは別人で、すっかり硬くなってしまっていた。
この十数秒の間に春日井の頭によぎったのは、酒井が緊張のあまりまったく力を出せずに終わってしまうという最悪のケースだった。
花道で観戦していた福田もたまらず「酒井、左から、左からっ」と声を飛ばした。
ここが勝負とばかりロペスが目を吊り上げて追ってきた。
左を出した。が、かわされた。
パチッという音ともに左の脇腹が熱くなった。
クソッ。ジャブがまた空をきった。そこへ左のストレートが飛んできた。
頭がガクンと後ろへもっていかれた。クリンチだ。そう思って身体を寄せた。
ショートが数発飛んできて、ロペスが懐に入ろうとしてきた。
イカン、この距離は相手の思うツボだ。
背の低いロペスは接近戦の方がやりやすいはずだった。
離れた。ロペスの右肩が動いた。左のガードを上げた。ロペスのパンチはボディへきた。
バチッという音がまた会場に響いた。
ペースはロペスにあった。「酒井っ、あわてるな」。
春日井はロペスにはスタミナがないと読んでいた。
だから三ラウンド以降ならラクに倒すことができると思っていた。
しかし、酒井の状態が悪過ぎた。
とにかくこのラウンドさえ持ちこたえろ。そうすれば巻き返せる。
何とかしのげよ、しのいでくれよ。
春日井は険しい表情でリング上へ声を出していた。
リング中央に移った。いきなりまた右ボディがきた。
そう何度も食うか、そう思って下がる。
左から右、さらに右。ロペスの勢いは衰えていなかった。
自コーナーまで下がった。「向こうはスタミナないからな、あわてんな、あわてんな」。
そんな声が聞こえてきた。ロペスが頭を下げ、振って、しつように入り込もうとしてくる。
この野郎、ジャブを出した。
離れずにもみあって中央へ戻った。
左の相打ち。続けてジャブ、ジャブ、そして右ストレートを出した。
打ち合いになったが、今度はまともにもらったパンチはなかった。
少し身体が動くようになった。よし、効いてない。
さっきのパンチのダメージはなかった。足にもきていない。コイツ、パンチがないな。
落ち着け。大丈夫だ、まだまだやれる。ここをしのぎさえすれば、と酒井も春日井と同じ事を考えた。
ロペスが低い体勢から打ってきた。ボディから左。かわした。左ストレート、左フック。
ブロッキングされた。ロペスの大振りのアッパーをかわした。
頭を下げて踏み込んできた。右に気を取られたところへ左フックがガンッと入った。
大きな歓声が耳に入ってきた。
クッソー。スパーリングとは比べものにならない衝撃だった。
マウスピースを噛む口に力を入れてロペスを睨んだ。
幸いなことはロペスにパンチ力がなかったことだった。
意識はしっかりあった。右ショートフックをお返しした。入った。さらに左を続けた。
ロペスがいやがって身体を寄せてきた。もみあい。
プシュー、とマウスピースの合間からロペスの息づかいが何度か聞こえてきた。
離れた。右ストレート。相打ちだった。左フックをかわすと身体が大きく流れた。
ジャブからストレート。
ロぺスがまたクリンチしてきた。疲れているのか。
細かいパンチの応酬から左の相打ち。ロペスの頭が後ろへのけぞるところが見えた。
右フックを続けた。きれいに入った。手応えもあった。
よし、と思ったと同時にスレートをまともに食った。
チクショー、こっちのパンチも効いているはずだ、そう思って攻勢に出た。
あと三十秒だ。春日井は時計を見た。
「ムリすんなっ」。
このラウンドで勝負をかけなくてもいい。それは相手の望むところだ。
勝負どころはまだ後だ。
このラウンドさえ終えればどう料理することもできるんだ。早く終われ、そう思った。
一ラウンド終了の鐘が鳴った。
「勝てるぞ」
春日井は赤コーナーの椅子に座った酒井にはじめにそう声をかけた。
「これからお前のボクシングをあわてないでやれば勝てる」
うんうん、と酒井はうなずいていた。
リング上で一八十センチはある金髪のラウンドガールがリングボードを掲げながら一周していた。
セコンドアウト。二ラウンド目の鐘が鳴る。
中央へ出た。左を出す。ロペスが時計回りに動き出した。
追った。
頭を下げてグッと沈んで左のストレートを突き上げるように出してきた。
かわした。もう大体パンチは読める、あわてるな、自分のペースでやるんだ。
右から左フックを出す。ロペスが左を返し、またボディを狙ってきた。左、相打ち。
すぐさまロペスの左フックが飛んできた。ブロック。
左フックを返した。入った。イイ手応えがあった。
続けてワンツースリーまで出した。
そしてフックを続けた。ロペスの足の運びがぎこちなくなっていた。やっぱり左フックが効いていた。
スピードのないワンツーがきた。
軽くパーリングした後で、狙った通りの右ストレートが入った。
もういちどストレートを打ち込んだ。ここだ。そう思った。
身体を寄せてきた。息が上がっている。もう俺のもんだ。
離れろっ、と突き放した。ここで倒す。そう思った。
前へ出た。ワンツーから右クロス。もみあい。左フック。手を出した。
次々手を出した。しかしクリーンヒットがない。ロペスも必死で守る。
チクショー、全然当たらんな。焦った。息が苦しくなってきた。口が開いた。
ここで攻撃の手をゆるめたらダメだ。そう思った。
リングサイドの観客が立ち上がっていた。倒せっと叫んでいる。
東洋からきた珍しい重量級の選手を応援している観客は多かった。
右ストレートが、屈んでいたロペスの頭に当たった。身体が揺れた。
左フックから右ストレート。入った。ロペスが頭を下げた。
少し離れ、自分の距離から放ったワンツーがロペスのガードの合間をぬって入った。
顔を横に向けたロペスの口から血が飛んでいったのが見えた。
右フックからボディ。倒れろっ。揮身の力を入れた。ロペスが両足を揃えて身体をあずけてきた。
離した。ストレートを打ち下ろした。目の前をロペスの右フックが流れていった。
もう一発、右ストレート。もう一発、そう思った時、
「ストーップ !」
レフェリーが大きく両手を広げて二人の間に入った。
「よしっ」
セコンド陣が立ち上がった。
勝った。
やった。ロペスは「なんだ、まだオレはやれるぞ」といった不満げな素振りをみせていたが、それはあくまでも強がりのポーズで、誰の目から見ても妥当なレフェリーストップだった。
「勝者、サカイーッ」コールを受けて酒井はやや照れくさそうに手を挙げて歓声に応えた。
コーナーでは春日井をはじめ三人のセコンドが満面の笑顔で迎えた。
幡野がパンパンと酒井の背中を叩いて祝福した。
花道を引き上げる。浅利が福田が、走り寄ってきて手を差し出した。
ガツチリと握手。
「やったな」
「へへ」
酒井はまた照れくさそうに笑った。
「おめでとう」
控え室にはワールドジムのトレーナーや選手たちが次々と祝福にきた。
ケニーが言った。
「一ラウンド目はナーバスになって自分のボクシングができなかったけれど、二ラウンド目によく立ち直ったな」
「ブルファイトでしたね。あんな試合してちゃダメですね」と酒井が笑顔で春日井に向か
って言った。
「左のガードが下がってたから、あれだけ食ったんだ。勝負どきもちょっと早かったけど、まあでもデビュー戦ってことを考えれば上出来だよ」
「酒井、大丈夫か、疲れたか」
と浅利が声をかけた。
「疲れはしないけどパンチがなくて助かった。だからそんなに慌ててはいなかったんだ。
あれでパンチがあったら危なかったね。ガードよりとにかく当てなくちゃって、そればっか
り考えたから。ベタ足だったし」
と言ってまた笑った。
「疲れてない?ウソつけお前、さっきまで息がゼェゼェだったじゃないか。十分疲れてるよコイツは」
と春日井が笑って言った。
「いや、今はそんなに疲れを感じないんですけどね」
「三ラウンドか四ラウンドならもっとラクに倒せたぞ。インターバルの時の話しを聞いてなかったのか」
「ラウンドガールを見ていたんですよ。四回戦でもラウンドガールが出るのかと思って」
「そうかあ?お前、正面向いてうんうんうなずいていただけじゃないか。まあ、いいや、とにかくよくやったよ。あれだけ打たれたんだから、明日は頭や首やら身体中が痛くなるぞ
、後はストレッチを十分やっとけよ」
「はい、分かりました。でも、これでラクな気持ちで浅利さんの試合が見れる」酒井はそう言って控え室で着替えをはじめた。