14.デビュー戦Ⅱ

浅利は酒井が勝って、よーし俺もやってやる、と闘志が湧いてきた。プレッシャーはなかった。

しかし第七試合まであと五試合もあった。観客席に現在、クリーブランドに留学している法政大学時代のボート部の友人が応援に来てくれていたので、一緒に試合を観戦した。友人が言った。

「お前、試合前なのにこんなところにいて大丈夫なのかよ」

「なんかあんまり緊張してないんだよね。少しは緊張しないといけないのかも知れないけど」

第一試合だったらもっと緊張していたかも知れないな、と浅利は思っていた。最後に回ったおかげで会場の雰囲気に慣れる時間もできて、リラックスできた。

浅利の友人は、大学時代から浅利が格闘技の道で食べていきたいと望んでいたことを知っていた。

浅利は部内でもずば抜けた体力をもっていた。

プロレスをやりたいと聞いていたのでボクシングを始めると聞かされたときは驚いたが、その浅利がもうすぐラスベガスのリングに上がろうとしていることが何とも嬉しかった。

浅利は日本で練習していたとき、ジムに藤原組のプロレスラーが練習にきたことがあって、そのうちの一人をスパーリングでKOしたことを嬉しそうに話した。

「卒業してから、プロレス団体に入門しようと思って門前払いを食らったことがあっただろ。だからあの時は雪辱してやったって気持ちだったよ」

「まだプロレスに未練があるのか、浅利」

「ないとは言わないけど、今はボクシングだな。これで有名になって、プロレスはそれからでも遅くないよ」

「ここまでやったんだから、お前ならやれるかも知れないな、頑張れよ、いつでも応援に駆けつけるからよ」

そんな会話をしながら観戦していたが、リング上では第四試合があざやかなKO勝ちで終わり、第五試合も一ラウンドでケリがついた。

そろそろ準備した方がいいかな、浅利はそう思った。

「じゃ、行くから。後で、試合が終わったらまた」

「おう、KOを期待しているぞ」

八時十分、浅利は控え室に戻ってバンデージを巻いた。

試合間近になっても心臓がドクドク高鳴ってくることはなかった。

バンテージを巻いてもらった後、ゆっくりと柔軟体操をはじめた。

浅利はオーディションに合格したばかりの頃は身体が硬くて前屈するのも苦しかったのだが、一年の間に見事に柔軟性を身につけていた。

身体の柔らかきはボクシングのオフェンスはもとよりディフェンスの動きに欠かせない大切な要素である。

第六試合の十回戦が判定にもつれこんでいる問、メインイベンターであるキューバ出身の怪人ゴンザレスが控え室前に姿をあらわし、フンフンッという鼻息とともに軽いミット打ちをはじめた。

ゴンザレスは二メートルもある大男、二日前の調印式の時、浅利はゴンザレスとツーショットの記念撮影をしていた。

「なんか調印式の時よりでかく見えるな」

みんなでヒソヒソ言い合っていた。

そのゴンザレスが九時半過ぎにリングへ向かった。

ゴンザレスが早い回にカタをつけることが予想されたので、浅利もシャドウ、そして軽いミット打ちをはじめて、身体のエンジンをかけはじめた。

ミットを受けながら春日井が、

「相手の右のボディに気をつけろ」

と浅利に小さな声でささやいた。

対戦相手のフィリップ・ロチャ・パラのシャドウやミット打ちを見ていて、春日井はパラの得意のパンチは右のボディ打ちだろうということを感じていたのだった。

そしてさらにこう付け加えた。

「お前のマウスピースは洗わないぞ」

一ラウンドでKO、を意味するその言葉に浅利は黙ってうなずいた。

「お前、勝ったら、リングでバク宙をするって言ってただろう。昨日、俺はお前がバク宙してる夢を見たんだよ。ホントだぞ。だからお前きっと勝てるよ。でも、そのバク宙に失敗して手をついちゃうんだけどな」

「そうですか、正夢になるようにしますよ」

メインイベンターのゴンザレスは思った通り、三回KO勝利を収めた。

いよいよ憧れのリングに上がれるぞ、浅利は嬉しかった。

四角いリングに上がることは、プロレスラーになりたいと思ったときからの夢だった。

緊張というよりその嬉しさで興奮してきた。

酒井と同じ赤コーナーの花道からリングへ向かった。

客席の友人から「アサリーッ、倒せよ!」と大きな声がかかった。

リングの上は気持ちが良かった。

身体を軽く動かして、首をコキコキと横に振った。

春日井はそんな浅利を見て、デビュー戦とは思えないほど落ち着いているな、と思った。

コールを受けて客席に手を挙げる仕草も堂に入っていた。客もまだほとんど残っており浅利が心配していたようにガラガラになってはいなかった。

リング中央でレフェリーの注意を受ける。

パラを睨み付けた。浅利の顔は普段とはまったく違う顔つきになっていた。

目つきが鋭くなり、グッと締まった顔になった。

鐘が鳴った。

二人、中央で向かい合った。

対戦者のパラは五戦のキャリアもあってか、はじめから突っかかってくるようなことはしなかった。

軽く左のジャプが飛んできた。右ストレートを出した。

そして左。相手も落ち着いているな、浅利はそういう印象をもった。

ワンツーがきた。ブロッキングとダッキングでかわした。

ガードはしっかり上がっていた。

左のボディを狙ったが、よけられてからワンツーがきた。

さらにワンツーの後の右ストレートを入れられた。

左の相打ち。パラの左フックをウィービングで見送った。睨み合う。

静かな立ち上がりだった。

これは四回までいくかも知れないぞ、一瞬そういう思いがよぎった。

左の相打ち。右がブロックされ右アッパーがきた。

もみあいの後、左。

様子を見ているんだなコイツは。

パラにはスキがなかった。左のストレートが浅く入った。

続けて右のボディから左フック。うまく逃げられた。

パラの右ストレートをかわしてワンツー。

読まれていたのか、届かなかった。

一分が過ぎた。「浅利っ、下から上だ」。

春日井がそう声をかけた。浅利はセコンドからの声がはっきりと聞こえていた。


体勢を低くして放った左ストレートがこの試合はじめてヒットした。

さらにワンツーをたたみこむ。パラが身体を寄せてきた。

もみあって中央へ戻る。ジャブをもらった。ワンツーから左フックを返す。

だめだ、まだ届かない。追ってワンツーから左フック。

パラが回り込んでいくところをさらに追って左ストレートのダブル。

二発目がアゴをとらえた。すぐに左のフックが飛んできた。かわした。

大丈夫、パンチは見えている。

パラが続けて放ったフックが大きく流れるところへショートのフックを返した。

そこへ右のアッパーが飛んできた。

かわせなかった。熱さをともなった衝撃が頭へ届いた。

この野郎、浅利の顔つきがまた険しくなった。

睨み付けて左ストレートがパラの右アッパーと相打ち。この野郎、またそう思った。

二分過ぎ、セコンドから幡野が「ボディ、ボディ空いてるゾ」と声をかけた直後に低く沈んで放った左ボディに確かな手応えがあった。

よし。ワンツーから左フックをたたみかけた。

パラが下がった。追ったところでクリンチされた。チッ、うまく逃げられた。

中央へ戻った。

パラの顔がさっきより情けない顔になっていた。

効いてきているのか? いや、コイツの作戦かも知れないぞ。

また低く入っていこうとしたところへ右ストレートがきた。かわした。

左ストレートをスリッピングでよけられた。パラのストレートもスリッピングでかわす。

右のアッパーを放った後で睨み合った。

パラが左フックを出してきた。ラクラクとウィービングできる。

スピードにもスタイルにも慣れてきた。

パラのジャブ、かわして左ストレート。

左手にズシッと手応えがあった。よし。追った。右から左。パラが下がった。

ロープに詰めた。

ここだ。決めてやる。そう思った。浅利はすごい形相になった。

パラが頭を下げ、振りながら回り込もうとした。

そうはさせるか。左から右。ロープをしならせてパラが寄り掛かる。

さらに左。素晴らしい感触があった。

パラが客席に向いた顔を戻そうとした時に、ちょうどこの左アッパーがカウンターで入ったのだ。

パンチがめり込んだ。決定打だった。

よろけるところへ右、さらに左から右が空をきった。

パラがリングへ尻を落としていた。

セコンド陣が立ち上がった。カウントがはじまった。

ニュートラルコーナーから浅利は、どうだ、と言わんばかりにパラを見おろしていた。

得意気なときにいつもそうするように、両手をプラプラ振りながら、心のなかで一緒にカウントを数えていた。

「・・・エイト、ナイン、テンッ!」

勝った。

浅利はその場で大きく飛び上がった。リングのロープに登って客席に向かって拳を突き上げた。


大きな歓声と口笛が鳴った。勝ったらやろうと思っていたバク宙を披露した。

それが、格好良く決まらず、春日井が見た夢の通り、手を着いてしまったのはご愛敬だった。

陽気な東洋人に客席からまたドッという歓声が沸いた。

コーナーに戻った。春日井が、幡野が、ケニーが、ガッツポーズで迎えてくれた。

「ありがとうございました」

浅利は大きな声で言った。最終試合だったため、リングの上でみんなで記念撮影をした。


リングサイドには酒井も福田、大学時代の友人や、ジムの仲間が集まってきた。握手攻めにあった。

「やったな」

「予定通りだよ」

花道を引き上げるとき、地元の少年たちからサインをせがまれた。

サインなんて生まれて初めてだった。

「将来、このサインに価値が出るようにしたいですね」と浅利はしきりと照れながらペンを走らせた。

「よかったですよ。もう、途中でこりゃヤバイと思ってリング近くに走っていっちゃいましたよ」と酒井が言った。

「何言ってんだよ、危ないところなんてなかったじゃないか。酒井の方がよっぽど危なかったじゃないか」

浅利が笑いながらそう答えた。

「大体、教えたことはできてたな。でもこれからまだまだやることはあるぞ。日本に帰ったら次の段階へステップだ。また、タップリしごくからな」

「まったく危なげなかった、完壁だったゾ」

春日井と幡野がそれぞれ声をかけた。

「いやー、これで胸張って日本に帰れるな」浅利が冗談めかしてそう言った。

・酒井公高 クルーザー級二ラウンド  一分十三秒TKO勝ち。
・浅利和宏 ライトヘビー級一ラウンド  二分四三秒KO勝ち。

二人のデビュー戦によって、シナリオのないドラマが幕を開けた。

日本人の重量級選手が世界のどこまで昇っていくか。

このドラマはどのように展開していくのか。

それはこれからのお楽しみだ。