デビュー戦はラスベガスで行うことになった。
八月十八日に現地へ向かうことが福田、浅利、酒井の三人に伝えられた。
佐藤と春日井はニューヨークのプロモーターともコンタクトをとっており、できれば一度
練習をしたニューヨークでデビュー戦を組んだ方がやりやすい、という気持ちはあった。
しかし、ニューヨークよりラスベガスの方がボクシングの興行は活発であり、マッチメイ
クするうえでも対戦相手を探しやすいのではないか、という判断をしたのだ。
福田がヘビー級、酒井がクルーザー級、浅利がライトヘビー級で対戦相手を探して欲しいと、最近のスパーリングの様子を収録したピデオと共に、マッチメーカーへ送った。
マッチメイクを依頼したのは、ロスアンゼルスに在住している日本人の女性だった。
アメリカでスポーツ写真を中心に活躍していて、以前から各地のボクシングジムで選手の写真を撮り続けており、ボクシング業界に強いコネクションをもっていた。
そしてマッチメイカーあるいはマネージャーとしての顔も持つようになった。
日本のボクシング関係者の聞でも彼女のことは広く知られている。
佐藤はマッチメイクにあたってひとつだけ注文を出した。
「うちとしては何でもいいから勝てる相手を探して欲しいわけじゃないんですよ。まるっ
きり実力の違う相手じゃ困るけど、同じデビュー戦レベルの相手なら、組んでください。
弱い相手を選んでやらせた後で、なんだあんな相手とやったのかとは、選手も私も言われ
たくないですから」
いよいよだな、三人はそう思ったが、対戦相手がまだ決まっていなかった。
日本で試合を組む場合、たいてい二ヶ月ほど前から対戦カードが決まるものだが、アメリカはどうも違うらしい、ということが分かった。
メインイベントは前々から決まっているが、前座となる試合が正式決定するのは十日前だったり、一週間前だったりと直前になるケースも少なくない、ということだった。
九月下旬には試合を行えそうだ、という連絡がマッチメーカーからジムに入った。
そこで、はじめていく土地だし、試合日程が流動的なので早めの現地入りし、調整しながら対戦相手の決定を待つ、というかたちをとることになった。
渡米前日の十七日の午後、選手たちは佐藤に挨拶に行った。
「勝敗にこだわらず一生懸命戦えばいい。必ず勝てる相手じゃないんだから、なっ。向こ
うはたいていアマチュア経験のあるヤツばっかりなんだからな、格から言えば向こうが上
なんだ。気楽にやれ」
佐藤はそう言って酒井の背中をパンッと叩いた。
「はい、頑張ります」
そりゃ、勝って欲しいけど、キャリア的に言えば負けても仕方ない、と佐藤は思っていた。
それでもいいとも思っていた。
負けてもコンチクショ!と這いあがってくるくらいの気持ちがないと、これから先、育っていかないだろう。
本場の選手がどんなものか、向こうで試合をすることがどんなものなのか知るだけでもいいだろう、そのくらいの気持ちでいたのだった。
その夜は、またジムの近くの焼き肉屋で壮行会も開かれた。
練習を終えたジムのトレーナーや選手たちも集まった。
スパーリングのために相模原ヨネクラジムにきていた新開ジムの会長も座に加わって、いよいよ賑やかな壮行会になった。
「ほー、ついにやるんか。で、どんな相手や」と新開会長が聞いた。
「いや、それがまだ決まってないんですよと酒井が答えた。
「決まってない?三人ともか。ほう、向こうはずいぶんノンビリしとるんやな。向こうは米があるんかい。やっぱり日本人は米食わんと、それにみそ汁も、なあ」
肉をもってやってきた店のお母さんに幡野が、三人がいよいよアメリカに行くことを報告をした。
ジムのプロ選手はみんなこの店によくしてもらっていた。
「こいつら明日からアメリカへ行くんですわ。向こうでいよいよデビューっちゅうわけです」
「あらまあ、やだよ、そうなの、大変じゃないの、ねえ、みんな、この子たち、明日からアメリカへ行くんだって。試合をやるんだってさ」
と驚き感心し「頑張っておいでよ」と一人ひとりに声をかけた。
「身体に気をつけてな。俺もみんなが帰ってきたら練習を再開できそうだから、勝って帰ってこいよ」
と市川も言った。
市川は大分体調が戻ってきていた。すでにロードワークは開始していたし、本人はいつ練習を再開しても大丈夫だ、と思っていた。
これより前、タイソンが試合前のスパーリングパートナーを募集しているというニュースを聞いて、春日井が冗談で、
「おい市川、お前行ってみるか」と聞くと、
「ホントですか」
と嬉しそうに答えた。
「バカ、本気にしてんのか、死ににいくようなもんだ」
自分の頭のなかではすっかり世界レベルで通用すると思っているところが市川の可笑しいところだった。
それに、誰それの戦績はこうで、パンチ力は誰が一番強いとか、首周りは何センチで、そういった情報は一番詳しかった。
浅利もいつだったか市川と話しをした後で、
「市川さんは、世界クラスの選手と自分と比較しちゃってますもん、そのへんがスゴイというか何というか、よく分からないところですね」
と言ったことがあった。
ともあれ、壮行会には九月四日にプロテストを受けることになっていた滝川もきていた。
「僕も絶対受かりますから、みんな絶対勝ってくださいね」店のマスターや顔馴染みのお客さんからも声がかかる。
「しっかりな」
「KOでカッコヨク勝ってこいよっ」
大きな男たちはペコペコと頭を下げつつ「ええ、頑張ります、倒してきますから」と答えた。
帰る時になって誰かが万歳三唱で送り出そうと言い出した。
「デビュー戦の勝利と無事を祈って、バンザーィ、バンザーィ、バンザーィ」
「アメリカ人に負けるんやないぞ!っ。」
幡野が最後まで表に立って見送った。
その夜。浅利は夢を見た。デビュー戦の夢だった。
夢はゴングとともに始まった。
勢いよく飛び出して、軽くワンツーを出した後、左右のフックを出した。
二、三発目のフックが相手のアゴを見事にとらえ、ダウンを奪い、そのままKO勝ちをおさめた。
コーナーに戻ると佐藤がリングの下まできているのが見えた。「やりましたっ」と大声で言った。
佐藤が嬉しそうにウンウンとうなずいていた。
春日井を見るとうれし泣きをしていた。
それにつられて自分も泣いてしまった。
そんな短い夢だった。
翌日、成田空港へ向かう電車のなかでその話をみんなにした。
「正夢になるといいな」
「どんな相手だった。強そうだったか」
「いや、それが問題で、日本人なんだよ」
「何だそれ、それじゃラスベガスの話じゃないなハハハ」
酒井は、デビュー戦は三人のうち一番目でリングに上がりたいと思っていた。
同じ日にやるにしろ、日にちがずれたとしても、だ。
はじめは三人のうち、何番目でもいいと思っていた。
しかしまてよ、もし前の二人が勝ったら、自分も勝たなきゃというプレッシャーがかかるな、また負けてしまったとしても今度は自分だけは勝たないといけないというプレッシャーがかかってしまうじゃないか、ああイカン、これは何としても一番はじめに試合をしたい、そんなふうに考えていたのだ。
福田は、何番目でもいいと思っていた。
とにかて早く対戦相手が決まって欲しかった。
誰とやるか決まっていないせいかピンとこないところもあった。
だから出発当日も、ついにデビュー戦なんだ、という気持ちの高まりもなく冷静に迎えた。
デビュー戦の実感が湧きアガってきたのは、サンフランシスコで乗り換え、一時間半程でラスベガスの街がはるかに見下ろせるようになった時だった。
ああオレはここで試合をするんだ、飛行機の窓に顔をつけながら、福田は胸をグッと締め付けられるような感じを味わっていた。
ラスベガスは日本以上に暑かった。湿気はないのだが日中の気温は相当高くなった。
なにしろ車のボンネットで卵焼きができるほど暑くなる。
以前行ったニューヨークとは気候も、街並みもまったく違っていた。
メインの通りには大きなホテルとカジノが立ち並び、生活の臭いはなかった。
砂漠の真ん中につくられた街、ギャンブルの街、そしてボクシングのメッカでもあった。
一行が落ち着いたのはメインストリートから車で十五分ほどの静かなアパートだった。
練習先となるワールドジムが目の前にあった。
ラスベガスにはボクシングジムが七つある。
ワールドジムは全米にフランチャイズ展開している、エアロビクスとウェイトトレーニングを中心としたジムだ。
ラスベガスのワールドジムも同様で、フロアの大部分を占めているのが各種マシン、それにエアロビのスタジオだった。
ジムはフロアの奥手にある。
ワールドジムを練習先にしたのは、ここはかの名トレーナーエディ・フアッチがメンバーになっており、彼のトレーナースタッフや優秀な選手が集まっている、ということを聞いていたからだ。
はじめのうちはしかし、ジムのトレーナーや選手の一部に、日本からきた一行をもの珍しさだけで見ている者もいた。
デビューするためにきたと聞いたあるトレーナーは、
「未経験の選手をプロデビューさせるにはアメリカでは三年かける」
と言った。
そして、
「なぜそんなに早くデビューさせるのか」
と聞いてきた。
その顔には、そんなに浅い経験で大丈夫なのか、と書いであった。
まして
日本人が今まで実績のない重量級だ。
選手たちにもそんな雰囲気は分かった。
しかしスパーリングをやればヤツらもきっと分かる、オレたちだって、こっちの重量級の四回戦で勝つためにやってきたんだ、そう思っていた。
もっともそんなことは実際にスパーリングを繰り返していくうちに、まったく問題にならなくなった。
日本からきたボクサーたちが、アメリカ流に言うならわずか一年のトレーニングしか積んでいないのに、予想以上にグッド・ファイターだということがジムの連中に分かったからだ。
八月の末に、浅利が九月の二三日にロスアンゼルスで試合を組めるかも知れない、という話が持ち上がった。
それで調整に入ったのだが途中でその話は流れてしまった。
マッチメーカーが次にもってきたのは、九月の三十日に三人揃ってマッチメイクできる、
という話だった。
佐藤も電話でこの知らせを聞いたときは、三人一緒、というのは最も望ましいかたちだったので、とても喜んだ。
三十日に試合を行うと想定して八日から三週間の調整に入った。
調整メニューは以下の通り。
日本人の重量級の選手の実力を認めたワールドジムではデビュー戦に向けて、とても協力
的だった。
ジムには優秀な選手がたくさんいて、次のような選手が彼らが代わる代わるスパーリングの相手をしてくれることになった。
・クリフォード・カウザー ヘビー級六回戦戦績/七勝二敗一分(三KO)
・ジヨシイ・フェレル ヘビー級四回戦戦績/二勝O敗
・カルロス・カルツ ライトヘビー級十回戦戦績/二十勝二敗
・ガイ・ソネンパーグ ヘビー級戦績/九勝十一敗
元フロリダ州インターコンチチャンプ
元USマリーンチャンプホリフィールド、フォアマンの元スパーリングパートナー
・レイ・マッカロイ ミドル級十回戦戦績/十九勝三敗
・アレサー・ウィリアムス ヘビー級戦績/二五勝四敗一分 前WBCインターコンチチャンプ
一度、日本で体験調整を済ませていたため、ラスベガスでの調整もスムーズに行えた。
酒井の減量も五~六キロだったため、問題なく目標をクリアしていった。
問題は二週目に入ったときに起きた。
福田が風邪でダウンしたのだ。
実は日本を発つ直前も福田は体調を崩して練習を休んだ。
あと一ヶ月という大切な時にと周囲はひどく心配し、あいつはホントにヤル気があるんだろうかと、自己管理の悪さを嘆いた。
ラスベガスで、春日井は一日休めと言った。
それが二日目も休んだ。三日目の朝、浅利から、福田は今朝は起きていて午後の練習から参加すると言ってた、と聞かされた。
二日ぶりの練習なので午後のスパーリングのために体力を温存しておくつもりなのかな、そう春日井は思って昼間に様子を見に行った。
福田はベッドでぐっすり寝込んでいた。
スパーリングのある日は昼寝はするな、と選手には言ってあった。
起きてから頭が回転するまで二時間はかかるため身体が付いていけずに、ひどいやられ方をすることが多いからだ。
それはボクサーとして危険なことでもあった。
「おい、一体何考えてんだお前」
試合直前に風邪をひくことは感心できないが、それでもどうしても試合に賭ける気持ちがあれば自分で練習に取り組もうとするだろう。
福田にはそういう姿勢が見えなかった。布団を蹴り上げながら春日井は、まったくこれじゃマイアミの時と同じじゃないか、と思った。
そして試合前の大切なときにどういうことだ、そんな甘い考えじゃ勝てるわけがないと叱っている最中に、福田は貧血をおこし倒れてしまったのだ。
そのとき春日井はベッドの枕元に利尿剤を見つけ、思わず舌打ちした。
「こいつ、利尿剤を飲んでいたのか」。
それなら、体調不良もうなづけるし、試合させない方がいいだろう。
日本で練習に励んでいたとき、選手たちで話していた折りに減量の話題になり、福田がほかの選手たちに
「下剤と利尿剤を使えば体重は落とせる」と言ったことがあった。
春日井はそれを聞きとがめてひどく叱ったことがあったのだ。
「体重は練習で落とし、飲み物と食べ物でバランス良く栄養分を補いながら、また練習をして落とす。
その繰り返しで減量するんだ。利尿剤なんかで水分を出して落としたら、大切なビタミンや栄養分が体内から失われて酷いコンディションになるぞ」
福田はあのときの話しを覚えていなかったのか、それとも忠告をまるきり無視したのか。
利尿剤を飲んだ福田を見て、春日井はこれはダメだと思った。
試合以前の問題だ、と。
佐藤に電話をして、こんな状態なので試合はヤメにした方がいいのではないか、と話した。
佐藤は福田がビビッたと思った。
そしてそれはそれで仕方がないか、とも思った。
様子を聞いて、試合をヤメる方が賢明な判断かも知れない、と言った。
福田は元を詰めれば自分の意志でボクシングの道へ戻ってきたのではなかった。
一年前に再び誘われて、それじゃまたやってみようという気持ちになった。
その受け身から最後まで抜け出せていなかったのか、と佐藤は思った。
「やるだけやってみる」とは日頃から言っていたが、結局その「やるだけ」という重みがほかの選手とは違っていて、ボクシングは誰のためでもなく自分のためにやるという強い意志が、自覚が欠けていた。
福田は「自分の責任です」とそう寂しそうに春日井に言った。
春日井は福田が「試合はやらせて欲しい」と言えば何とか調整してみるつもりでいた。
だが最後まで「あと二週間死にもの狂いでやるので試合は流さないで欲しい」という言葉は聞かれなかった。
最後の最後で福田のデビューは棚上げになった。
しかし残された二人にとって福田のことをとやかく一言っている暇はなかった。
一日五時間の練習を順調に消化する毎日が続いた。
特にスパーリングの相手に恵まれたことが何よりのプラスになった。
ヘビー級の十回戦クラスの選手にはグローブハンデをもらい、かなり手加減してもらっていたが、浅利はミドル級十回戦のレイ・マッカロイのスピードにも付いていけるようになり、スパーを終えた後、ジムの中から思わず拍手がおこったほどの仕上がりを見せていた。
チーフトレーナーのティムは二人について、
「サカイはホントにいいボクサーだ。パンチも早い、まだ若いので将来はもっと伸びていくだろう」
「カズは教えられたことをドンドン吸収している。体調も良さそうだし、今すぐでも試合ができるんじゃないか。デビュー戦はきっと大丈夫だよ」
と言った。
九月三十日の試合が正式に決定したとマッチメーカーから報告があった。
会場はアラジン・ホテル。
八千人収容の劇場内に特設リングをつくって行われる。
今やボクシングのメッカになったラスベガスで試合をすることはアメリカの多くの選手にとって憧れとなっている。
そこで日本の無名に等しい選手がデビュー戦を行えることは、とても幸運なことだった。
二八日、アラジンホテルにて調印式。
ホテルのステーキハウスを借りきっての大がかりなセレモニーだった。
日本からきた重量級のボクサーは司会者から、挨拶を求められた。
浅利は突然の指名にも臆することなく英語でスピーチをした。
こういった動じないところが浅利の良さであり、それはボクシングの上でも強味になるはずだった。
二九日、アラジンホテルにて計量。酒井は一八八ポンド、リミットを二ポンド下回ってクリア。
浅利も一七四ポンド、リミットを一ポンド下回ってクリアした。
二人はここでデビュー戦の相手と初めて対面した。
酒井の相手はテリー・ロペス、戦績はO勝二敗。
デビュー戦の相手としては妥当な戦績だった。
ロペスは一七〇センチを少し超えたくらいの身長で豆タンクのような身体つきをしていた。
浅利の相手はフィリップ・ロチャ・パラ、戦績は三勝二敗。
戦績だけみるとデビュー相手としては向こうのキャリアが気にかかった。
計量が行われた特設会場前のフロアで二人はじっとそれぞれの対戦相手を見つめていた。
試合を直前に控えたボクサーは緊張感と戦闘意欲が高まり、はたから見ると怖いような雰囲気を漂わすことが多いが、二人にはそうしたピリピリした言動はなかった。
「あいつか、オレの相手は。三勝二敗?大丈夫だろ、たいしたことないよ」浅利が自分に言い聞かせるようにいった。
「オレの相手、身体を絞っていないんじゃないスかね、ナメとるんかな。早くウナギを食べに行きましょうよ」と酒井も言った。
ここ三週間の減量から解放される計量の後は、ウナギをご馳走してもらえることになっていた。
日本料理屋で食ベた鰻重と牡蛎鍋は、久しぶりの食事らしい食事だったので、じつにうまかった。
「何か、オレたちあんまり緊張感がないな。明日になれば気持ちが盛り上がってくるのかな」料理をパクつきながら浅利が冗談めかして言った。
「そう?俺は十分緊張してますよ、結構胸がキツイ感じがしますもん」
「そのわりにはさっきからよく食べてるじゃないかよ」
「大丈夫、あれなら大丈夫、二人とも勝てる、いいかいつも言ってるようにオレが一番強い、そう思うんだぞ」春日井が声をかけた。
試合開始は明日、午後七時半。