11.デビューへ向けてⅠ

「そうそう、今の打ち方だ、そのタイミングと形を忘れないようにな」

浅利がミットにフックを打ち込んでいた。

一期生のなかでアメリカから帰って以来、グンと成長してきたのが浅利だ。

この頃は右フックをマスターしつつあった。相手のジャブをよけながらフックを放つ。

いつものように何度も何度もミット打ちで練習を重ねて、スパーリングでもうまいタイミングで出せるようになってきた。

ボクシングはセンス、体力、努力のすべてがそなわっていれば申し分ないが、どれかひとつでもあれば伸びていける。

浅利はジムにやってきたときからセンスが抜群にあるわけではなかった。

しかし基本的な体力に加えて、ひたむきさをもっていた。

ここにきてその成果があらわれてきたのだ。

はじめは覚えが遅くても、いつのまにか一番いいカタチでパンチを出しているのが浅利だった。

不器用なカメが前にいるウサギに追いついてきた、そんな感じだった。

一方、アメリカから帰って体調を崩した選手が一人いた。

市川である、市川はアメリカにいたときから体調が少しおかしいことを感じていた。

ニューヨークではずっと身体がダルイ感じがしていて、はじめは時差ボケかなと思っていたが、それにしてはなかなか直らない。

帰国してからもダルさがとれず、練習すれば汗の量が前より異常に増えたし、疲れた。

ブリッジをやるだけで汗がたまったし、電車に揺られているだけで辛かった。

それで病院で検査を受けた。

すると肝機能が低下していて、GOT、GTP値が正常値の三倍以上あることがわかった。

疲労からくる体調不良ということで、市川にはしばらく休養が必要となった。

ジムのトレーナー業を手伝いながら体調を戻すことになり、本牧からまた相模原の寮へ戻ることになった。

練習を休むことでほかの選手より遅れをとる。

デビューも延びてしまう。

「仕方ないな。まあ、一年も二年も休むわけじゃないから、良くなったらまたはじめればいいさ」と春日井が言った。

「悔しいですけど、原因が分かりましたから。病院へ行く前の方がもっと不安でした。ボクシングは辞めた方がいいと言われたらどうしようかと思いましたから」

治らない病気ではない。ここは焦らず治療に専念しよう、市川はそう思っていた。

市川の一時休養により、九月にデビューするのは福田、浅利、酒井の三人という線がかたまってきた。

三人にとってデビューへ向けて、より実践的なトレーニングが重視されるようになった。
ディフェンスしながら攻撃に転じる練習もはじまった。

ダッキング、スリッピングしたあとにすかさず打つ。

パンチをよけてジャブ、ストレートを放つ、あるいはパンチをかいくぐってボディ打ち、といった守った後すぐに攻撃に移るパターンを身につけておくことは四回戦クラスではかなり武器になるはずだった。

「いいか、相手が打ってきたときにはスキができるんだ。特に大振りの時はそのスキを逃きず攻勢に移るクセをつけろよ」

五月十八日から二十日にかけて久しぶりに合宿が行われた。

ジムワークに変化をつけることと、二期生たちの歓迎合宿という意味もあった。

参加したのは福田、浅利、酒井、仲松、滝川である。


三日間とも春の日差しがポカポカと照る、絶好の合宿日和となった。

朝六時と午後三時からそれぞれ次のようなメニューが繰り返し行われた。

・本牧から森林公園までロードワーク 二・八キロ

・森林公園四周五・二キロ(一周のうち百メートルダッシュ三本、二十メートルダッキング一本)

・シャドウ 一ラウンド

・腕立て伏せ 百回

・メディシンボールを使った腹筋強化

・ジャックナイフ 六十回

・三十秒ダッシュ 二十本

・ワンツー 芝生の坂を利用して前向き後ろ向き

・ナワ飛ぴ

合宿最終日の夜、春日井の家ですき焼きパーティが開かれた。

「お疲れさん」

「ありがとうございました!」

酒を飲むのはみんな久しぶりだった。

春日井はプロボクサーのなかにはジムやトレーナーに隠れて酒を飲む者もいることを知っていたので、最低限の約束としてスパーリングをした日は絶対に酒を飲まないよう言っていたが、だからといって日曜などに酒を飲もうとする者はいなかった。

仲松は酒が強くほとんど顔色を変えずに焼酎を一升ほどあけてしまった。

福田は顔を赤らめて上機嫌になった。

浅利と酒井はいつものように冗談を言い合っていた。

この夜はカラオケ大会も開かれた。

五人が順番に歌い、それぞれが採点した。みんな音楽が好きなこともあってか、なかなかうまかった。

歌唱力では滝川と酒井が一歩リードしていたが、滝川は歌うときに小指を立てて、歌い方もみんなから「なんかイヤらしい」という声があがったため、一位は酒井になった。

賞品を開けてみると目覚まし時計が入っていた。

「お前、朝、起きれないからちょうど良かったじゃないか」

と春日井が言った。

「イヤな音で鳴るんだろうなあ」「明日から二つ鳴らせよ」

「いや、もう僕三つもってるんですよ」

ヘビー級の五人が集まってワイワイやっていると部屋が狭くなったように感じた。

春日井は五人について、いろいろなタイプのヤツが集まったもんだと思っていた。

ここまでやってきて、それぞれがどんな性格なのか分かり、指導法はもとより声をかけるにしても一人ひとり違うやり方をとっていた。

春日井はみんなを次のように「分析」していた。

尻を叩かれながら練習をするのが福田と仲松だ。

仲松は練習をはじめてから一ヶ月半だから合宿では一期生のペースについていくのはちょっと難しかった。

今日も苦しそうな仲松に「まあ、いいや、ムリしなくて」と声をかけると「そうそう人間ムリしちゃいけませんよね」と答えて舌をペロッと出した。

仲松にはそんなとぼけたところがあった。

あれをやれ、これをやっておくように、そう言わないと、ここまででいいのかと思って終わりにしてしまうタイプだ。

福田はインターハイで二連覇したという実績が、プロの世界ではさほど意味をもたないと自覚してから、指示通り黙々と練習をするようになった。

グングンと伸びているわけではないが少しずつ成長してきた。

ジャブもストレートもだいぶ良くなってきたし、ディフェンス面でもかなり上達した。

それは福田も実感しているだろうが、もっと強くなりたいという覇気のようなものがもうひとつ感じられなかった。

だから手綱を強く持って引っ張っていかないといけないと思っていた。

今回の合宿もそうだがロードワークのトップきるのはいつも浅利だった。

次いで滝川、福田、酒井、仲松の順となる。

浅利は腕、背中、胸のすべてが一回り大きくなり、ロードワークのタイムも以前と比べてかなり速くなっていた。

浅利も滝川も大学まで体育会系のクラブに籍をおいていたことが基礎的な体力面でかなり有利になっていた。

また二人とも、学生時代に全国レベルで優れた成績を収めていたので、試合で勝つために、スポーツで頂点に立つために、どのような練習過程が必要であるかをほかの選手よりも分かっていた。

その点で手応えはある。

酒井は、一人だけ十代ということもあって、考え方がまだ甘い点がある。

自分のために練習するという意味が分かっていないと感じることがこれまでもあった。

センスはあるし成長していることは確かだが、当初あれだけ差がついていた浅利に追いつかれているのは、そのあたりに問題があるんじゃないかと、そんなふうに春日井は考えていたのだ。

春日井は、子どもの頃から凧上げがうまかった。

引っ張ることと糸をゆるめる加減がうまくないと凧は高く上がらない。

トレーナーも凧上げと似たようなところがある。

選手は誰も彼も同じようなペースで伸びていくわけではない。

驚くほど伸びる成長期もあれば、伸び悩むときもある。

人間のタイプも違う。

その時々に応じたサポートをするのがトレーナーだ。

それはボクシングに関することだけでなく、悩みごとの相談相手になったりすることも含まれている。

選手たちを自宅近くに引っ越しさせたのもそうした理由があった。

それでも、みんなが等しく育っていくことはまず不可能に近い。

トレーナーとしてはみんな強くなれば言うことなしだが、誰か一人が強くなって、ほかの選手を踏み台にしていくことは十分に考えられる。

実力の世界、ましてプロの世界だからそれはそれで仕方のないことだった。

「一度世界のレベルとやって負けたときに、這いあがってくるヤツが本物になれる」

と佐藤が言ったことがあるが、それはトレーナーとしても同感だった。

もっとも誰が本物になるか、それが分かるのはまだまだ先の話だ。

合宿を終えた翌週、佐藤がジムにやってきた。

佐藤はこの日、デビュー戦について春日井と確認しておきたいことがあった。

「九月にデビューの線は変わらないとして、だ。三人ともヘビーというのはちょっとムリかな」

「福田はヘビーでいけますけど、浅利と酒井は最初はムリだと思うんですよ」

「クルーザーか」

「酒井は脂肪を二十キロ弱落としてクルーザーでしょうね。浅利は今クルーザーのウェイトですからライトヘビーまで落とした方が有利でしょう」

酒井自身はヘビーでやりたいと思っていた。しかしまだ本当にヘビー級といえる身体ができていなかった。

水増しの体重で戦えるほどプロのリングは甘くない。

弱い相手を選んでやるならともかくアマチュアのキャリアがあるレベルの高い選手とやったら、潰されてしまう可能性もあった。

体力、筋力ともに本場のヘビー級に対抗できる身体にするには実戦を積みながらでもできる。

まだ絞りながら筋肉を付けている段階だし、お前はまだ若いんだからそう焦らなくても大丈夫だ、と説明されて、納得したのだ。

六月に入って、三人は、仮試合日を決めて調整に入った。

デビュー戦が決まった後で、試合前の調整を初めて経験するよりも、一度仮試合を組んで、それに向かって調整の仕方を覚えていくことが大きな目的だった。

三人の調整メニューは大体次のようなものだった。