11.デビューへ向けてⅡ

仮試合は福田が六月二十二日、浅利と酒井が七月四日となった。

この三週間は技術的なこと以上にコンディションの調整の仕方に重点を置いた。

三人に設定された体重は福田が九五キロ、酒井がクルーザー級のリミットの八六キロ、浅利がライトヘビー級のリミット七九・三八キロである。

福田はヘビー級だから体重制限はなかったが、もう少し絞って動きをシャープにする必要があった。

フォアマンのように一発の威力があるタイプではないので、身体についている脂肪という重りを取ることで、動きを軽くしもっと手が出るようにすることが目的だった。

「どうだ、ずいぶん身体が軽くなっただろう」

「自分じゃあんまり分からないんですけど」

「九五まで落とせば今よりもっとパンチが出るようになるよ」

福田は、高校時代も減量経験があって、食事のとり方など自分である程度分かっていたこともあり、体重はスムーズに落とすことができた。

浅利は、大学時代のボード部の練習でも、同じように一度ピークに持っていって、そこから試合に向けてペースを落としていくという練習方法をとっていたので、こうした調整の仕方には慣れていた。

ライトヘビー級のリミットまで七キロほど落とさないといけなかったが、ほほ予定通りの調整が進んでいた。

減量で一番苦しんだのは酒井だった。

酒井は本格的な減量が初めてであったし、二十キロ近く落とすために、かなり食事の制眼をしなければいけないのが辛かった。

唯一の楽しみを奪われた、酒井はそう思って悲しくなった。

母の沢子に言わせると酒井は子どもの頃から「それはもう驚くほど食べていた」という。
だから沢子は電話で、調整のために減量していると聞いたとき

「本当に食事を我慢できるんだろうか」と心配した。

中学のとき太りすぎを気にして、しばらく減量するから食事はいつもより少なくしていいと宣言することが何度もあったが、そのたびに夜腹が減るとこらえきれずに、冷蔵庫に入っている食べ物をムシャムシャと食べてしまい、結局ダイエットが成功したことはなかった。

しかしこの三週間の調整は、太りすぎのダイエットを行うのとはわけが違う。

プロとして闘う絶対条件をクリアするためのものだ。途中であきらめることは許されなかった。

調整期間中、毎日、練習前と練習後と体重を春日井に報告する。

「九六キロです」

練習後はだいたい練習前よりニ~三キロ体重が落ちる。

「明日は九七キロでこいよ」

水分も含めて明日までに一キロほどの食物はとれる、ということだ。

こうして少しずつ落としていく。

一キロほど摂れるうちはまだいいが、これが五百グラムや三百グラムになっていくと、まともな食事はできなかった。

練習を終えて帰ると、腹がグーッと鳴った。

やっぱりどうしてもクルーザーに落とさないといけないんだろうか、と酒井はそう思った。

重量級のボクサーで減量しなくてはならなくなるとは考えもしなかった。

ヘビー級なら体重のこと考えなくてもいいのに。

「この調整が終わったら何食べたい」

練習が終わった後、酒井は浅利とよくそんな話をしていた。

「焼き肉も食べたいし、焼き鳥も食べたい、スパゲティもいいしハンバーガーもいいな、・・食堂で思いきり食べたいなあ」

しかし酒井は結局予定通りの減量ができなかった。

八八キロ、ニキロオーバーだった。

それでさらに十日間調整を延長することになった。

福田は六月二十二日に仮試合を済ませ、浅利も予定日までにキッチリと落としていた。

春日井にはキツク叱られた。

試合の日に向けたコンディションづくりはボクサーの基本だ、それができないならボクサー失格なんだ。

まず自分に勝たなければ相手になんて勝つことはできない。

もう少し自覚をもってやれ。

そう言われた。

ジムの練習の合間にマットにくるまって汗を絞り出し、酒井は生まれてはじめてこけた頬に手をやりながらこう言った。

「なんかボクサーって感じがしますよ。重量級でこんなことになると思わなかったです」
七月十五日、酒井は八六キロまでに体重を落とし、仮試合を終えた。

三人の調整体験は終了した。

すべてが順調ではなかったが、一度こうした調整を済ませておいたことは、いい経験になった。

梅雨が明けると、去年に続いて今年も暑さの厳しい夏になった。

ジムではよく汗が出るようにクーラーは入れていない。

窓も閉め切ってあるため、サウナに入っているように汗をかいた。

「こんなに暑いとイヤんなるな」

と、どの選手の顔にも書いであった。

春日井もこの暑さのなかでダラダラと練習するより、時には気分転換も必要だと、プールでの合宿を考えた。

朝、ロードワークが終わった後、午後の練習はジムではなく本牧の市民プールで行うことにした。

そうみんなに伝えると、

「イヤッホーl」

と歓声があがった。

「ただし、遊びじゃないからな、喜んでいると後で泣きをみるぞ」

プールでの練習は遊びに来た人たちが帰りはじめる三時過ぎから行われた。

手だけ使って泳ぐ、

足だけ使って泳ぐ、水の中の徒競走、潜水、といった、体力と心肺能力を高めるメニューが組まれた。

潜水もはじめは浅利のほかは一分くらいしかもたなかったが、最後にはみんなが二分以上潜っていられるようになった。

大きな男が五人揃って奇妙な格好で泳いでいるのを周りの人たちは横目で見て笑っていたが、当人たちはいたってイイ気分だった。

確かにジムでの練習と同じか、それ以上に疲れる練習ではあったが、なにしろ蒸し風呂のようなジムに比べてプールは天国だった。

「いつもは鬼のようなことを言う春日井さんが優しく見える。夏のあいだはずっとプールで体力トレーニングしたいね」

「そうだな」

酒井と浅利はそう言って笑った。

プールでの合宿を終えた、七月の下旬、渡米の日程が決まった。