5.マイアミへⅡ

ニューヨークから戻った春日井が福田に聞いた。

「どうだった」

「全然相手になりませんでした」

と福田はショゲた顔でそう答えた。

「当たり前だ、俺はみれば分かるんだ、今のお前が通用するわけないだろう。大人と子どもどころか、大人と赤ん坊の違いだよ」

春日井は強い口調でそう言い、少しはクスリになっただろう、と思った。

十一月五日、福田と春日井はマイアミからラスベガスへ向かった。

MGMグランド・ガーデンでマイケル・モーラー対ジョージ・フォアマンのタイトルマッチを観戦するためだった。

現地では佐藤と合流することになっていた。

当日会場に入ると佐藤がすぐにこう言った。

「いやあ、いいねえ、この雰囲気、最高だね」

あと数時間後にヘビー級の世界タイトルマッチが行われるリングを目の前に、福田にしても春日井にしてもまったく同じ気持ちだった。

前座の試合からすべて見た。

のっけから四回戦のヘビー級の試合が行われた。

一人の選手が、これがまた非常にうまかった。

すぐにでも六回戦、八回戦で戦えるような力をもっていた。

「どうだ、フクダ」と春日井が聞いた。

「ウマイ、ですね」

福田がボソッと答える。

「ああ、四回戦とは思えないな、アメリカじゃあんなのがゴロゴロいるってわけだ」

マイアミでのスパーリングが福田の頭の片隅にずっとあった。

四年のブランクのせいじゃない。

日本でアマチュアチャンプになったからといっても世界へ出れば赤ん坊だ、春日井の甘いもんじゃないと言う意味が少し分かったような気がしていた。

そして今日またアメリカの四回戦ボーイの想像以上の実力を見せつけられて、その思いはますます強くなっていた。

落ち込んでいたわけではなかった、と福田は後で言っている。

「意地がありますからね、スパーでやられたくらいで引っ込んじゃ笑いものだし・・・それまでは、とりあえずやってみて、ダメだったらいつでもヤメてもいいか、なんて思ってたところが確かにあったけど・・・でも悔しいというか、結果が出る前に、何にもしないうちにあきらめるためにボクシングをまたはじめたんじゃない、そう思ったんです」

それはメインイベントを見終わった後、さらに込み上がってくる思いだった。

なにしろこの日のタイトルマッチはヘビー級の歴史に残る一戦であったから、なおさらだった。

モーラーとフォアマンの対戦は、モーラーが初防衛に成功する、というのが大方の予想だったし、福田もそう思っていた。

メインイベントが迫るにつれ場内の興奮が高まり、口笛や声援がますます多く飛び交うなか、「どう思う、フォアマンは勝てるかな」

と佐藤が聞いた。

「まず常識から言うとモーラーでしょう、フォアマンの一発が当たればどうか分かりませんが、まず当たらないんじゃないですか」

福田はそう答えた。

実際、試合はその通りの展開になった。ラウンドが進むごとに着実にポイントをかせぐモーラーに対してフォアマンのパンチはいかにも緩慢で当たりそうもなかった。

九ラウンドまで終了し、十ラウンドのゴングが鳴って早々に、それまでの戦いぶりを見て佐藤は言った。

「もうだめだな、いつ倒れるかだろう、なぁ春日井さん」

春日井が向き直って

「奇跡が起こる以外、勝ちはありませんね」

と答えた。

福田も思わず春日井の返答に顔を向けたとき、会場に怒号のような歓声があがった。

同時に多くの観客が椅子に立ち上がったかと思うと、「ジョージ!ジョージ!」と叫び始めたのだ。

三人がいるリングサイドから、リングは大男たちの背中で遮られ見えなくなり、「・・・フォーッ、ファーイブッ、シークスッ」というカウントだけが歓声のなかで響き渡った。

フォアマンが倒されたのか、もしくは奇跡が起こったのか、どっちだ!?

カウントテンまでコールされピークに達した会場の興奮が、数十秒後に収まったとき、三人はリング上にまだ横たわっているモーラーと拳を高く突き上げ、何かを叫びながら鬼のような形相となったフォアマンを見た。

奇跡は、起こったのだ。

  フォアマンが勝った。三人は会場を離れ、ホテルのカジノに何台も設置されているモニターで、ようやくその瞬間を見ることができた。

あの回、ほんの一瞬、隙をみせたモーラーのアゴをフォアマンの右ストレートが直撃した映像が繰り返し流れていたからだ。

福田は何度も、その映像を見て、一瞬でそれまでの立場がひっくり返った世紀の逆転劇に興奮していた。

ボクシングは最高のドラマだ、福田はそう思っていた。

今の自分にとってあのリングははるか遠いが、ドラマの主役になる日を迎えたいと思った。

いつか地元横浜でヒーローとしてリングに上がる自分を想像した。

だから、やっぱりボクシングはやめられない・・・。

タイトルマッチ観戦の後、佐藤と春日井は、これ以上マイアミに残って練習しても身にならないと思うなら、一緒に日本へ帰ってもいい、と言った。

しかし福田は、一人残ってトレーニングしてみたい、と言った。

「どれだけ意識が変わったか分からないけど、そう言うならやらせてみてもいいんじゃないですか」

春日井は佐藤にそう話した。

「これまでは甘えもあったし、うぬぼれもありましたけど、ボクシングをはじめた頃の気持ちに戻って一人で残ってやってみたいんです」福田は二人にそう言った。

初めてグローブをつけたとき、サンドバックやパンチングボールを打ったときの何とも言えず嬉しかった感触、そして試合に勝ったときのこと、遊ぶことよりもボクシングの練習の方が楽しかったとき、そんな高校生の頃の心を、このときの福田は取り戻しつつあった。