オーディションから一週間ほどたった日のこと、佐藤はボクシング業界の関係者と話す機会があった。
当然ヘビー級の話題になった。
「佐藤さん、ヘビー級に楽しみな選手が入りましたね」
「まあ、これが第一歩ですから、順調に育ってくれるといいんですがね」
「海外でも練習させると言っていましたが、アテはあるんですか、よかったらアンジェロ・ダンディを紹介しましょうか」
アメリカのボクシング界にも顔が広いその人物は、話の途中でそういう申し出をしてくれた。
「あのアンジェロに・・・」
佐藤は思わぬ話に身を乗り出して、話を開いた。
アンジエロ・ダンディはモハメド・アリ、シュガー・レイ・レナードらを育てた、この世界で知らぬ人はいない、名トレーナーである。
一九七四年、ボクシング史上に残る一戦、アリ対フォアマンで絶対的不利が予想されたアリに、ロープを背にしてフォアマンが疲れるのを待つ「ロープ・アンド・ドープ作戦」を授け、タイトルを取り戻させた話は有名である。
今はフロリダ州マイアミにジムを構えている。
「イイ話じゃないか、スグ向こうへ行こう」
佐藤は福田を連れて早速、アメリカへ「面接」に出向いていった。
話は意外なほどスンナリ決まった。アンジェロは福田のシャドウとサンドバッグ打ちを見ると「下半身の柔らかさがいい、妙な力が入っていなくて自然体だ。伸びる素材だと思う」
と色ツヤの良い顔をほころばせながら言った。外交辞令もあったろうが、おおむね福田に対して好印象をもったようだった。
日本人のヘビー級ボクサーを育てることに興味をもったのかも知れない。
そして十月から年内一杯、アンジェロのジムでトレーニングを行う契約が結ばれた。
佐藤は大物との契約を素直に喜び、福田はアマチュア経験があるから一人であずけても大丈夫だろうと思っていた。
しかし、春日井にしてみれば不安がないわけではなかった。
初めて福田を見たときから、春日井はコイツは基本からやり直さないとダメだという印象をもっていたからだ。
アンジエロが手取り足取りして教えてくれるならともかく、まるっきり放任主義なら、あまり意味はない、ということを佐藤にも話をしたが、まあ、あれだけのキャリアをもったトレーナーの指導を受けられることはめったにないチャンスだし、決してマイナスになることはないだろう、ということで落ち着いた。
マイアミの練習には、はじめの二週間ほど春日井が同行した。
春日井は、この先ほかの選手が育ってきた後に、外国で練習できるジムを探すためニューヨークへ行くことになっていた。
その前に、福田の様子を見ておくことにしたのだ。
二人は九月二九日に、マイアミへ向かった。
「福田、しっかりな、ツラクても泣きごと言うんじゃないゾ、お前、年末まで飛行機のチケットは渡さないようになっているからな」
そう言って佐藤は送り出した。
ジムの近くのアパートを借りて、アンジェロのもとに通い始めた。
アンジェロは輝彦という名前から福田を「テリー」と呼んだ。
ジムのトレーナーや選手が福田に付けたあだ名は「フジヤマ」だった。
福田は「テリー」と呼ばれるのも照れくさいし、「フジヤマ」は何だかバカにされているようであまりイイ気分ではなかった。
「お前のリングネームはテリー・フジヤマで決まりだな」と春日井が笑いながら言った。
ともあれ、練習開始である。トレーニングメニューはアンジェロがつくったもので、春日井は、ただそれをそばで見ているだけだ。
シャドウ、サンドバッグ、シングル、ナワ飛びといった、一日十二ラウンド前後の軽めの練習。
取り立てて、福田用のスペシャルメニューというわけではなかった。
アンジェロは「ロードワークはしなくていい」と言った。
さらに「ミット打ちも必要ない」と言った。
ロードワークとミット打ちはボクサーに不可欠な練習であるはずだ。
福田も春日井も驚いた。
「不必要な筋肉はつけなくていい、ボクシングをやることでボクシングに必要な筋肉はついてくる」というのがアンジェロの一言い分だった。
確かに一理ある。あるけれど、それはアメリカ人、特に黒人のようにはなから基礎体力があり、もともとバネのある筋肉をもっている場合だろう、と春日井は思った。
日本人の筋肉は鍛えてこそ質が高いものになる。
ロードワークをしてこそ体力がつく。ある程度完成したボクサーならともかく、これから練習をはじめる卵に、外国人のやり方を当てはめても無理があるんじゃないか、そう思ったが、口出しはできなかった。
ただ福田には「朝のロードワークだけはするように」と言った。福田はむしろ走らなくていいと言われたことで、何か特別のトレーニング方法があるのだと思った。
そしてロードワークをしようとしなかった。
初日、春日井は黙っていた。 二日目も。三日目の朝に布団を蹴り上げた。
「オイ、いい加減にしろ、お前、ホントに走らなくてもいいと思っているのか。どこで体力つけるんだ。それに減量しなくちゃだめだろう。今のままじゃただのデブじゃないか」
福田はしぶしぶロードワークはやるようになった。
福田には、俺はインターハイで二連覇しているんだ、という自負があった。
四年のブランクがあるとはいえ、俺はほかの仮合格者とは違うんだ、何うるさいこと言っているんだ、そんな気持ちだった。
しかし春日井の目から見ると、福田はまだまだボクサーと呼べるものではなかった。いくらインターハイで二連覇といったって、選手層が薄いクラスだから、実績を鵜呑みにはできない。
激戦の軽量級で何十試合もこなして、高い勝率を誇っているならともかく、ヘビー級は試合数も少なかった。
それにマイアミにきて福田には今一つボクシングに取り組む情熱や覇気が感じられなかった。
アパートで春日井は福田に聞いた。
「お前何のためにボクシングやっているんだ」
「・・・」
「金か」
無言でうなずいた福田を見て、春日井はチェと思った。
福田の頭の中にはデビュー五戦後の一千万円がチラチラしていたのか。
それじゃ強くなれない。
ボクシングをはじめる理由は、金よりもまず誰よりも強くなりたいという気持ちがなければダメだと思っていたので、
「ただ会長に誘われたから、やってみようなんていう考えで通用するほど甘い世界じゃないんだよ。そこを変えないとやっていけないぞ」
と言った。春日井は福田に、ボクシングに向かう強い気持ちをもって欲しかった。
そうでなければ自分が教える意味もないし、福田は途中で潰れるだろうと思った。
福田にしてみれば、トレーニングをはじめてから以前の感覚も戻ってきたし、やれる自信はあった。
しかしその後、それがやはり間違いであったことを思い知らされることになった。
春日井がニューヨークへ行っている問、ジムのクルーザー級のボクサーとスパーリングが行われることになったのだ。
春日井はその選手の動きを見ていて、福田に、
「お前のパンチはひとつも当たらないぞ」
と言った。
しかし福田は、なーに、パンチがひとつでも当たればこっちのもんさ、とタカをくくっていた。
はたして。福田のパンチは一発たりともクルーザー級の選手の顔にヒットすることはなかった。
まるで子ども扱いであった。話にならなかった。
こんなはずじゃない、福田はそう焦りながら相手を追ったが、一枚も二枚も向こうが上だということを思い知るのに二ラウンドもかからなかった。
(つづく)