6トレーニング開始Ⅰ

一方、相模原ヨネクラジムの仮合格組は。

 酒井と市川は九月十二日に寮へ引っ越しを済ませた。

浅利は彼らより三週間ほど後の十月一日に引っ越した。

寮は、ジムからひと駅離れた小田急相模原駅のそばのワンルームマンションだ。

滝川だけは、まだ大学に在学中であり、卒業するために大学へ通わなければならないため、しばらくは埼玉の自宅から週三回ほど通ってくることになった。

仮合格組はボクシング経験が無いに等しいため、九月、十月は基礎的な練習となった。

特にまた、十月は春日井がジムを留守にしていたので、みんな渡された練習メニューをこなしていた。


五時四十分 起床

六時     ロードワーク ジムの近辺を六キロ走る

        百メートルダッシュ十本シャドウ

        ※火・木・土はジムでウェイトトレーニング

十五時半  ジムワーク

・準備体操

・シャドウ   四R

・ミット打ち 三R

・マスボクシング 二R

・スパーリング 二R

・サンドバッグ 五R

・シャドウ 二R

・パンチングボール 三R

・ナワ飛び 四R

・腹筋

・背筋

・ダンベル 腕・首

・体操

十八時 終了

 だいたいこのような毎日を送っていた。

打つパンチはジャブとストレートだけ。まずボクシングの練習に慣れて、体力を付けることを中心に考えられたメニューであった。

本格的なボクシングの練習は誰もが初体験だったので、合間合間に「キツーッ」と悲鳴があがった。

そんなときは決まって、

「オラーッ、そんなんでへばっててどうする、こんなのは序の口ゃ。これからもっともっとキツクなるんやぞ。気合い入れていかんかーい」

と幡野から大声でハッパをかけられた。

幡野は当初、ヘビー級の育成に不安を抱いていたものの、実際の練習がはじまるとそうした気持ちが少しずつ消えていった。

みんな一生懸命練習しているし、今はまだ練習生だがこのまま続けていけばジムとしても夢が見れるかも知れない。

そう思うようになった。それにヘビー級がほかの選手たちの刺激にもなるという効果もあった。

酒井はこちらへやってくるとき本格的なボクシングの練習に付いていけるかどうか、不安だったという。

特に最初の二週間は毎日、練習が終わるとへトヘトになった。しかし、その疲れは心地良いものだった。

好きだったボクシングがやれることはやはり嬉しかったのだ。こんなに一生懸命何かに打ち込むのは久しぶりだ、もしかしたら初めてのことかも知れん、と酒井は思った。

「今までは何もかも中途半端でしたからね」

酒井は中学で野球部に入った。全国大会の常連校で強豪チームだった。

はじめは一軍にいたのだが、途中で二軍になってしまい、結局そのまま卒業するまで一軍に戻れなかった。

高校も、どうも肌が合わなくてやめてしまった。

名古屋の自分の部屋で、いったい自分には何が向いているんだろう、と一人考えることがよくあった。

「焦りというか、考え込むタイプなんですよ僕は。ケッコー繊細ですから」

高校を辞めた後、肉体労働のアルバイトをした。身体を動かすのが好きだから仕事はイヤじゃなかった。でも一方では、こんな身体を使った仕事を一生続けていけるんだろうか、と悩むことがあった。

グルグル考えが回って答えが出ない迷路から、ボクシングによって抜け出すことができるかも知れないと思った。

新天地での生活をはじめながら、ボクシングに納得できるまで打ち込んで、最終的には俺も頑張れば何かできるんだという、自信を手に入れたい、酒井はそう考えていた。

ヘビー級の練習が終わりに近づく五時過ぎから、ジムは一日でもっとも活気のある時間帯を迎える。仕事を終えたプロボクサーや練習生が続々とジムにやってくる。

練習に入る前の「お願いしまーす」という挨拶がひっきりなしに響く。

「さーて、気合い入れていこか!」

拭き手ぬぐいをはちまきにして、幡野がノシノシとトレーナー室を出る。

そして、「体操!っ」という号令のもと、練習が始まるのだ。

相模原ヨネクラは集合練習をとっている。

練習時間を区切って、その時間内でプロ用と練習生用のメニューがこなされていく。

プロのメニューは練習生のものより時聞が長いし当然内容もハードだ。そして試合前の選手は別メニューになる。

どこのジムもこういう形式をとっているのではなく、選手が好きな時間にきて、勝手に練習して帰る、という放任主義のジムも多い。

どちらが良いとか悪いとかではないが、浅利は体育会系出身のせいか相模原ヨネクラのビシビシした雰囲気が好きだった。

有名になりたい。浅利は子どもの頃からずっとそう思ってきた。

そして格闘技が好きになってこの道でメシを食っていければ夢がかなうと思い、大学を卒業した後、某有名プロレス団体に入門を志願しにいったこともあるが、門前払いとなった。

浅利が冗談めかして言ったことがあった。

「だからボクシングではやく強くなって、有名になって見返してやりたいんですよ。それに重量級なら、ファイトマネーだけでリッチな暮らしができるじゃないですか」

市川は、実際にジムで練習をはじめて自分たちがいかに恵まれているか実感した。朝はジムのプロの選手たちと一緒に走って、そのあとヘビー級以外の選手たちは仕事へ行き、終わってからジムに練習にくる。

市川は、酒井や浅利にくらべて残されている時間が少ない。だからよけいにボクシングだけに専念できる待遇をありがたいと思った。

当面は一年以内のプロテストを目標にして、合格したら、その後五、六年はできる。それからが勝負だ、そう思っていた。物静かな性格の内側にそんな闘志を秘めて、市川は黙々と練習を続けていた。

同じマンションに住む三人は、練習を終えた後、時々連れだって夕食にでかけた。

食べることが三人のエネルギー源だった。焼き肉屋、定食屋、居酒屋などジムの近所に、選手を応援してくれる店が何軒かあって、ボリュームたっぷりのサービスをしてくれた。浅利も市川も人並み以上に食べるが、一番の大食漢は酒井であった。好き嫌いはない。

「よく食うなあ」

といつも二人は驚いていた。浅利が酒井に言った。

「寮の近くの回転寿司にさ、四十皿以上食べたらタダになるところがあるだろう、あそこに行けばいいんじゃないか」

「もう行きましたよ」

「で、四十皿以上食べれたのか」

「腹空かせて行ったら四十皿なんて軽く食べられるんですよ。でも、恥ずかしいじゃないですか、二度と行けんようになるし。だから行く前にゴハン食べてから行きましたよ」

そのくらいよく食べる。

練習して、たっぷり疲れて、たくさん食べて、ぐっすり寝る。そういう毎日が続いた。

毎週日曜日は練習も休みだ。しかし三人とも彼女はいなかった。

そりゃ欲しいけど、今はそんなこと言ってる場合じゃない。強くなって有名になったら、素敵な子が向こうから寄ってくる、浅利は自分にそう言い聞かせていた。

だから用事もない日曜日には、誰かの部屋に集まってビデオを観ることもよくあった。

市川が往年のアリやフォアマン、そしてタイソンの試合のビデオを多くもっていた。よくしゃべるのは酒井と浅利だ。

「いやー、今のパンチすごいよね、ああ、俺もあんなパンチが打てるようになりたいなあ」

酒井がシュツシュツと言いながらワンツーを打つ真似をした。

「俺はやっぱりタイソンが好きだな」

「浅利さんは身体がタイソンですもんね」「じゃお前は誰が好きなんだよ」

「アリとフォアマンを足して二で割ったようなボクサーが理想ッスよ」

「なんだ、それ、いったいどんなボクサーだよ」

「華麗なフットワークと強烈な一発ですよ。蝶のように舞って、熊ん蜂のように刺すわけですよ」

「熊ん蜂か、そりゃいいな、ハハハ」

と市川が静かに笑った。