1 第一回ヘビー級公開オーディション(2)


「参加規定をもう少しくわしく教えて欲しい」「合格の基準は何か」「テストはどんなことをするのか」といった問い合わせが全国から数十件寄せられた。

オーディション当日は二十名の参加者が集まった。

そして、書類選考で八名が身長規定(一八十センチ以上、二十歳以下は一七五センチ以上)に満たず、残りの十二名が実技テストを受けることになった。

ニューオータニの「梅の間」は冷房がきいているにもかかわらずジワッと汗ばむような熱気がこもった。詰めかけた報道陣はおよそ五十名。

プロボクサーのオーディション、しかもヘビー級だからスポーツ新聞の記事としては格好のネタになる。

「いったいどんなヤツが出てくるんだろう」という顔をした記者やカメラマンがメインステージの周りに陣取り、さらに一般の見学もオープンにしたため、参加者の「応援団」をはじめとする人々で客席が埋まった。

十二名の大男たちがゾロゾロと舞台に登場した。

 いよいよ始まりだ。

テストはミット打ち一分半、サンドバッグ一分半の計三分で行われる。

審査員席に座っているのは佐藤のほか、ジムのマネージャー兼チーフトレーナーの幡野光夫、ヨネクラジム会長の米倉健司、ゲストとしてカブキロックスの氏神一番といった面面である。

ゼッケン順に名前を呼ばれた参加者が次々と中央へ歩み出る。

三分間、休みなくパンチを出し続けることは相当キツイ。

途中で息があがってゼェゼェ息を吐きながら、鬼のような形相になってパコパコ打ち続ける者がいる。

「パシッバシッパシッ フンフンフンツ」と口で効果音を出しながらミットを叩く者がいる。

だが、効果音ほどに実際のパンチは強くない。

またなかには「自分は借金があるのでよろしくお願いします」と自己PRする変わり者もいた。

デビュー五戦後の一千万円のことしか頭にないのだろう。

佐藤のチェックシートに×印が並んでいったが、期待はずれの者ばかり続いたわけではなかった。

参加資格の第一条件はヘビー級クラスの体格をもっていることであるが、ボクシング経験は問わない。

オーディションは光る素材を拾い上げることを目的にしていたので、我流の打ち方でもいい。

経験の有無より、体力、パンチ力、全体のバランスを重視して審査が行なわれた。

柔道や空手、レスリングといった格闘技の経験があるものもいて、時折、オッと思わせるパンチを打ち込んだ。そういうときはすかさずカシャカシャツというカメラ音とフラッシュがそこに重なった。結構やれそうなのがいるじゃないか、そう思いながら佐藤はみていた。

さて。このオーディションには一人の注目選手がいた。

一九八九年、一九九十年とインターハイヘビー級二連覇の実績をもった福田輝彦であった。

福田はもともと鶴見工高卒業時に佐藤からジムへの入門を勧誘されている。

しかし当時は「ヘビー級は将来活躍する場所がない」などという理由で誘いを断り自動車販売のサラリーマンになった。

しかしさらにここへきて再びボクシングをやろうという気持ちになっていた。

福田はオーディションに先立ち入門が「内定」しており、すでにトレーニングを開始していた。

この日はマスコミへのお披露目という目的もあった。

当日、またずいぶんと報道陣が集まったものだな、と福田は思った。193センチの福田は会場がよく見渡せた。

こんなに派手なことになるとは思っていなかったなあ、というのが正直なところであった。

この時の福田の体重は130キロを超えていた。身長は高校時代と変わりなかったが、四年間で30キロ近くの贅肉がついていた。

この日はTシャツを着ていたが、当時の福田はハダカになると上半身はお相撲さんのような身体つきであった。

福田の順番は十二番目。つまり真打ちである。

自分の前に出ていく参加者のなかで、いいパンチを打つな、と思ったのが何人かいた。三、四人は合格するだろう、という印象をもっていた。

よし、俺はあいつらより凄いところを見せてやろう、そう思って福田は中央へ歩み出た。

集まった報道陣の大方の目当ては、元インターハイヘビー級チャンピオンの復活、という話題であったので、すべてのカメラマンがスタンバイした。

会場にシャッター音が響いた。福田は巨体をユサユサ揺らしながら「どうだ」とばかりにミットにパンチを送り続けた。

審査の結果はおおよそ福田が思った通りになった。


ただし正規の合格者は福田のみであった。研修三ヶ月後に練習内容をみて合格を判断する、という条件付きの仮合格者が四名出た。それぞれのプロフィールはつぎの通り。


【合格者】

・福田輝彦昭和四七年五月二九日生まれ。24歳。神奈川県出身。一九三センチ、百三十キロ。

鶴見工高時代にインターハイ二連覇。高校時代は十戦十勝(九KO)という戦績。

【仮合格者】

・浅利和宏昭和四四年十一月十八日生まれ、二四歳。茨城県出身。
一八十センチ、八六キロ。
法政大学時代はボート部在籍インカレ総合二位。

・市川次郎昭和四十年十一月二九日生まれ、二八歳。神奈川県出身。

一八十センチ、九十三キロ。早稲田大学大学院卒。剣道四段、柔道初段。

・酒井公高昭和五一年九月十日生まれ、十七歳。愛知県出身。
一八三センチ、九六キロ。名古屋市立港明中学校時代に野球部所属。

・滝川武弘昭和四五年五月一日生まれ、二四歳。埼玉県出身。
一八三センチ、八八キロ。高校時代は柔道部で全国高校選手権団体三位、インターハイ団体三位。法政大学四年。

この成果は佐藤にとって十分満足できるものだった。福田のほかにも四名が残った。やはり探せばいる。

良い条件を出せばやりたいと思う人間はいる。ボクシングは、ましてヘビー級は間口を広くして人材を発掘していかなければな、と佐藤はあらためて思った。

「うちのジムの練習は厳しいけど、逃げないで頑張れよっ!明日からお前たちの仕事は何だ? ボクシングだ、職業はボクサーになったんだぞっ、それを肝に銘じてな」

オーディション後、合格者たちの前で大きな声でこう言って、部屋を後にした。

翌日、ほとんどのスポーツ新聞にオーディションの様子が大きな扱いで記事になった。

「オレたち第二の洋介山、ヘビー級オーディション」
「ヘビー級殴ディション 開催される」
「ボクシング界スタ誕 平成夢物語 契約金一千万円を目指して」
「インターハイ V2 福田らが合格」


少々気の早いことを書いた記事もあったが、佐藤の気分は上々であった。

(つづく)