2 相模原ヨネクラジム(1)

 日本人のヘビー級ボクサーを育てたい。

それは、ジムを開設した時からの佐藤の願いだった。

相模原ヨネクラジムは、神奈川県相模原市東林間にある。

新宿から小田急線に乗っておよそ五十分、東林間駅で降りる。

町田方面へ戻るように線路沿いを百メートルほど歩くと左手に四階建てのピルが見えてくる。その一、二階がジムだ。

佐藤はこのジムを一九八七年の一月にオープンした。ジムは圏内屈指の設備を整えている。一階は小奇麗なホテルのロビーのようだ。

ドアを開けると手前に来客用の応接セット、正面にフロント、その奥には事務室。

中二階に更衣室がある。シャワーはもちろんサウナまで整えられている。もちろん女性用の更衣室も完備している。

二階がトレーニングルームである。広さはおよそ八十坪。

入り口左手のガラス張りのトレーナールームから全体が見渡せるようになっている。

右手にはサンドバッグが八つ、天井から下げられている。中央にリング。

リング脇にパンチングボールとウエイトトレーニング機器が各種備えられている。

ボクシングジムはどこもかしこも、このような設備を整えているわけではない。

国内で、これだけの設備を有しているのはほんの一握りもない。

特に八年前に、これだけの設備を整えたジムの登場は画期的だった。

ジム開設当時、佐藤は石油事業で波に乗っていた。

全日本ボクシング協会に加盟しているプロのジムはおよそ二百二十あるが、そのなかで佐藤は最も異色なオーナーだろう。

佐藤は今から二十年前、二二歳でガソリンスタンド一軒買い取って独立し、石油販売会社を設立した。石油の現金安売り販売で成功し、都内と神奈川県の相模原市、大和市といった地域でガソリンスタンドを急速に増やし、店舗数五二、年商二百億の企業へ成長させた。

さらに九三年からは、石油とはまったく違う分野であるメディア関連への進出を目指して、日本ビデオ販売株式会社を設立。ここを本部にビデオ販売のフランチャイズ展開をはかった。これが順調に伸び、現在は全国に千店舗を超えるフランチャイズ店が誕生している。

事業が忙しいため毎日ジムに顔を出すわけではない。

特に本社が東京へ移ってからは、平均月に二、三回というべースで様子を見に来て、選手の状況を聞く。現場のやり方には口を出さない。

口を出すのはヘビー級に関してだけ、といっていい。

石油会社の経営者であった佐藤がボクシングジムを開設した理由は、かつてボクシングに対してやり残した思いがあったからだ。

二十数年前、佐藤もプロを目指して練習に励むボクサーだった。

東京で生まれ育った佐藤は、高校に入学すると目白のヨネクラジムに入門しボクシングを始めた。

ヨネクラを選んだのは「有名選手がたくさんいたし、大きくてきれいだったから」。

入門後しばらくして日本J・フェザー級チャンピオンの清水精のスパーリングパートナーとなった。

清水には海外キャンプに同行させてもらったり、ずいぶんと可愛がってもらった。

「でもね、練習といえばスパーリングばかり、毎日四ラウンドくらいやってたかな、清水さんのパンチはハンマーで打たれるようなドカンドカンというやつでね、こっちは面白いというよりコワかったよ。現役の日本チャンピオンが思いきり打ってくるんだからさ」。

佐藤の入門後、ヨネクラジムから柴田国明、ガッツ石松と立て続けに世界チャンピオンが生まれたが、彼らのスパーリング相手をつとめたこともあった。

「毎日鼻血だしてたなあ、あの頃は。シャツが血で真っ赤になるんだから、もうメチャクチャだったよ、うん」

佐藤が特別優秀だったから、こうした選手のスパーリングパートナーをつとめたのではない。

ジムの看板選手の練習時間は、たいていほかの選手より早く午後三時くらいから始まった。
佐藤は学校を終えてジムにくるからちょうど時間が合う。そのため練習相手となったのである。

「それに僕は打たれても打たれても前にでる典型的なブルファイターだったから、練習相手にちょうど良かったんじゃないの」

佐藤は自身のことをボクサーとしては下手な選手だったと振り返っているが、ブルファイターは高校三年の時にはインターハイの東京都予選を勝ち抜いて優勝した。

高校卒業後はプロデビューを考えていたのだが、ひとつの出来事をきっかけにプロボクサーになることを諦めてしまった。

ある日のこと、練習を終えてシャワーを浴びていると、プロの六回戦選手の一人が隣で突然ゲラゲラと笑いだしたのだ。

「何だ!?」。佐藤の驚きはスグに怖さに変わった。

全身に鳥肌が立った。それは完全なパンチドランカーの症状だった。

それを見て、佐藤は「すっかりビビッてしまった」のだ。

「そりゃそうだよ、僕はブルファイターだったし、このまま続けていたら、いつか自分もこうなるという不安が頭をもたげたんだ」

佐藤の足はジムからだんだんと遠ざかっていった。

そして二十歳を過ぎ社会人になり、さらに独立してからは仕事が忙しくなり、リングに上がることはなくなった。

「でもね、不思議なもので辞めた後で、なぜデビューしなかったんだと後悔するようになった。

プロのリングで戦って、これが俺の限界だと感じて諦めるならまだいい。

そうじゃないからずっと尾をひいていたんだ」

佐藤はあしたのジョーになれなかった。燃え尽きることのできなかった想いがジム開設につながった。

そして当時石油会社の本社があった東林間にジムをつくった。

なんと総工費二億九千万円という超豪華なジムの誕生であった。

佐藤はジム開設にあたって、ひとつの大きな夢をもった。

「ジムをはじめるにあたって、先輩たちがやってきたように軽中量級のチャンピオンを育成するのが目的だったら自分がやる意味がない、と思ったんだよね。

もっと別の意義を求めたかった。考えていくうちに、日本人の世界ヘビー級チャンピオンの育成が思い当たった」

と佐藤は言っている。

もともとヘビー級には特に思い入れがあった。ボクシングを始めた頃、世界のヘビー級のリングでは、モハメド・アリ、ジョー・フレージャー、ジョージ・フォアマン、ケン・ノートンという四巨人が活躍していた。

ジェリー・クォーリーという佐藤の好きだった白人選手もいた。ヘビー級が最も美しく輝いた黄金時代だった。

一人のボクシング少年がたまに放映されるテレビやボクシング雑誌をみては、おおカッコイイな、ボクシングはこうじゃなくちゃ、と一人で興奮していたのだ。

そして自分でリングに上がることがなくなっても、ヘビー級ボクサーは世界最強の男だ、という憧れをずっと持ち続けていたのだ。



「日本にはヘビー級の世界チャンピオンは言うに及ばず、世界クラスで活躍した実績もない。

僕はトレーナーとして選手を教えるノウハウはもっていないけれど、オーナーとしてプロモーターとして、ヘビー級の醍醐味を伝えてボクシングファンを増やすことがボクシング業界に参入する意義だと思ったんだ。

大きな男の本気のぶつかりあい、みる人間にとってこれ以上エキサイトすることはない。

それも日本人が外国の大男をバタバタやっつけて、世界一強い男のタイトルをもぎとってくるんだ。

僕も派手なことが好きだからね、これができたら歴史に名を残すだろうね。

だからジムもヘビー級チャンピオンにふさわしいものにしようとお金をかけたんだ」

ジムの開設にはヨネクラジムの米倉会長が協力してくれた。

スポーツ新聞の取材で佐藤が「ジムをつくりたい」といったことが記事になり、それを目にした米倉会長が「遊びにおいでよ」と連絡をくれた。

そしてライセンスの取得をはじめ様々な便宜をはかってくれた。

佐藤はジムの名をライオンズジムにしたかった。しかしそれ以前、笹崎ジムに所属し日本Jrウェルター級のチャンピオンであったライオン古山が自分のジムを開設していて、リングネームからライオンズジムと名付けていた。

何とか譲ってもらえないかと交渉したが、古山も愛着のある名前だから、はいどうぞ、というわけにはいかない。

結局あきらめて、昔自分もヨネクラにいたし、米倉会長にもお世話になったから、ということで

相模原ヨネクラジムと名付けたのだ。


(つづく)