市川次郎の場合。
市川は二八歳、合格者のうち最年長だった。
肩幅の広いがっしりとした体つき、ホームベースを逆さにしたカタチの顔は思慮深そうで、全体に落ち着いた雰囲気がある。
市川は早稲田大学の大学院を出ている変わり種である。
なぜ市川はボクシングだったのか。
「オーディションの広告を目にしたとき、ああこれだ、と思いました。
プロボクサーを目指すことには何の欝踏もなかったですね。大学へ研修生として通いながらバイトをしていた生活を送っていまして、特に先行きこうしたいというものもなく、漠然とした生活にイライラしていたこともありましたから。
小さな頃から剣道をやっていて、剣道を続けていくには教員になるのが一番イイと考えていたんですが、東京都の教員採用試験は六十倍以上の競争率でとても受かるわけはないと・・・。
ボクシングは大学の選択授業でやったことがあります。面白くてすっかりボクシングファンになって、テレビの衛星放送でよく観戦するようになりました。
体育祭のボクシング部のスパーリングに飛び入りで参加して、ボクシング部の選手を相手に優位に戦ったこともあります。プロでやりたいという密かな想いはあったのですが、僕の身体でミドル級の体重には落とせませんからね。
そこにあの広告ですから、よしやってやろうと思いました。
家でウェイトトレーニングをしたり身体は鍛えていましたし、ある程度自信はあったんですよ。母は受けろ受けろと言いました。
僕の影響かどうか、ボクシングがたいへん好きでしてね、ちょっと変わった母親なんですよ」
市川の母、たみは息子の挑戦に大賛成であった。
「私は一にも二にも賛成でした。男としてやりたいことがあったなら、そこに親が立ちふさがるようなことをしてはいけないと思います。
本人は学生時代からいろいろやってみたいことはあったようですが、何かもう一つ心を揺さぶるもの、魂を奪われるようなものと出会わなかったようです。
ただボクシングは熱心なファンで、よくテレビやビデオを観ていました。私もつられて観るうち、すっかりファンになりましてね。
本人があのオーディションを知って、受けてみると言ったときは、やっと自分の鉱脈を掘り当てたかな、と思いました。
合格後、私がジムへご挨拶に伺ったとき、マネージャーの幡野さんがこうおっしゃいました。
「お母さん危険なスポーツなんですよ、万一の時は命にかかわることもあるんですよ、それだけは分かっておいてください」と、でも本人がやっと巡り会えたものですから、男子の本懐を遂げて欲しい、そうお答えしました。
ああいうかたちで選手を募集してくれたジムに感謝しています。
次郎の年齢は気になりませんでした。
フォアマンをはじめアメリカのボクサーはかなり年齢をとっても戦い続けていますからね。
とにかくプロテストを受けられる三十歳前に合格をすれば、それから後はいくらでもチャンスはあると思いました」