7 西島洋介山とのスパーリングⅠ

十一月の終わり、佐藤がジムにやってきたのは、ちょうど市川と酒井のスパーリングが始まる前だった。

「チワースッ」ジムにいる選手たちが口々に挨拶をした。

「ウン、ウン、ウン」と、片手を上げて答えながら、

「どう春日井さん、みんな良くなってきた?」

と佐藤は聞いた。

「何とかスパーリングらしきものができてきた、といったところですか、でも市川が成長期なんで酒井となかなかイイ打ち合いをすることがありますよ」

市川は、ジャブ、ワンツー、フック、アッパーと、ひと通りのパンチをマスターしてきたところだった。

次の段階として、相手のパンチを払うパーリング、パンチをグローブや腕、肩で受け止めるプロッキング、ひざを曲げ上体を揺らしてパンチをかいくぐるダッキング、といったディフェンスの練習を中心に行っていた。

リングの上で、市川と浅利がマスボクシングをやっていた。

マスボクシングとは空手でいう寸止めに近い。

パンチを打ち込まず、ポンと軽く当てる程度のスパーリングだ。

浅利が打って、市川が防ぐ、という練習を重ねていた。そうして、デイフェンスの技術をひとつずつマスターしていくのだ。

酒井は、そこから一歩すすんで、バックステップの練習だ。

大鏡の前で、動きを確認しながら何ラウンドも同じ動きを繰り返す。

バックステップしながらパンチを出す。

左足を後ろに蹴るのと同時に、左ストレートか左フックを出す。

そして右足に体重が移っているときにはガードができている状態に戻っていなければならない。

これをいち、にい、さん、と頭で考えながらやるのではなく、ごく自然な流れでできるようにする。

身体に覚え込ませるには時聞がかかるのだ。

「会長、そろそろやりますから。市川、酒井、次、スパーな」と春日井から声がかかる。

「そう、それじゃ、お手並み拝見といこうか」

佐藤は三週間ぶりに見るスパーリングを見た。

酒井と市川ともに攻撃の主体はジャブとワンツー。

市川はやや頭を低くして前進、詰めたところで左フックを放つが、酒井がワンツーをヒットさせる。

市川は最近左フックに自信がではじめたので、ジワジワ前へ出てはボディ、顔面へと繰り出すのだが、スパーとなるとかなり粗っぽくなるので酒井に動きを読まれている。

覚えたからといってそう絵に描いたように決まるものではない。

しかし市川はしつこさが持ち味である。

ストレートもはじめのころと比べるとだいぶ速くなってきたので、ポコンと一発あたるとパンチにパワーがあるので酒井が押し込まれコーナーに詰まるような展開もみられるようになってきた。

ラウンドの合間に春日井が交互に指示を出す。

「市川、ガードが下がってるゾ、打ちっぱなしになるんじゃない。もう少し、ディフェンスのこと考えてな、さっきの練習通りだよ」

「いいか、酒井、市川みたいにしつこく前に出てくるヤツにうまくバックステップを使うんだよ」佐藤は、思ったより順調だと思っていた。

わずかの期間でここまで成長してきでいることに安心もしたし満足もしていた。

「いいじゃない、ねえ。はじめてまだ一ヶ月や二ヶ月じゃ普通は鏡に向かってシャドウしてるだけだよ、うん、いいよ」

練習が終わってみんなで食事に行った。焼き肉屋である。三人の前におかれた十五人前の肉がどんどん消えていった。

「よく食べるなあ、うん、そのくらいじゃなくちゃな。よく食べてよく動く。どうだもう練習にもだいぶ慣れだろう」

「ハイ、でもまだキツイっす」。肉を飲み込みながら酒井が答える。

「名古屋が恋しくなってきたんじゃないのか」

「いや、そんなことないです。楽しいです、毎日」「浅利は、ボート部の練習とどっちがキツイ?」

「ボクシングもキツイですけど、ヘトヘトになるという感じじゃないですね」

それを聞いた佐藤が嬉しそうに言った。

「おっ、そうかお前、よーし明日からもっと厳しくやってくれ。やっと右ストレートがボチボチ打てるようになってきただけなのに、強気だね」

「ああ、いや、まあ」

追加の十五人前分の肉が三人の胃に収まっている最中、佐藤は幡野と春日井に小さな声でこう切り出した。

「どうだい、さっきの話、頼むだけ頼んでみれば」

スパーリングを見終えた後、トレーナー室で佐藤は、西島洋介山とスパーリングさせたらどうかともちかけていた。

ちょうどジムで別の興行の件で西島が所属するオサムジムの渡辺会長と連絡を取り合っていた時だったので、話のついでに頼んでみれば、という話になった。

もし受けてもらえるなら、自分たちの当面の目標と手あわせできるのはいい経験になるだろうし、それでまたヤル気も出るだろうという考えもあった。

「お前たち、洋介山とスパーリングする自信はあるか」

「えっ、できるんですか、やらせてもらえるなら、ぜひ」

酒井がすぐ箸をとめて元気よく答えた。

それで、ダメもとで一度頼んでみましょうか、ということになった。

オサムジムの渡辺会長からOKの連絡が入ったのは、スパーリングの申し込みから数日後だった。

レベルが違うのは分かり切っていたし、相手にされないんじゃないかと話していたので、思いがけない朗報といえた。

西島は十二月二十日に試合を控えていた。渡辺会長としては、もし少しでも骨のある相手がいたらめっけもん、くらいの気持ちで呼んでくれたのだろう。

はじめに浅利が春日井から開かされた。

「開いたか、あの話本当になったんだぞ。」

「本当、いつ、いつ、いつやるの」と酒井が勢い込んで聞いた。

「あさって、十五日だって」

オレたち洋介山とスパーできるんだって」

「やったね」!

「ふーん」と最近鼻の下にヒゲをはやしている市川がいつものように冷静に一言った。

そして「大丈夫かな」とつけ加えた。


十五日

オサムジムは埼玉県大宮市大成町にある。

JR京浜東北線の大宮駅からタクシーに乗って約十分。

一時にオサムジムに到着した。

スパーリング開始は午後二時からの予定である。

先に着替えて身体を動かしておくことにした。

ジムの前には、ゾロゾロと報道陣が集まってきていた。

酒井がやけにニコニコしながら言った。

「こんなチャンスめったにないことですからね、パンチが当たる当たらないよりも、スパーできることが嬉しいッス」

軽くシャドウをする酒井に春日井が言った。

「まあ、胸を借りるわけだから、実力の違いにショック受けんなよ」

浅利と市川はともにやや緊張した面もちであった。

「とにかく一生懸命やるしかありませんよ」と自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

一時半、西島がワンボックスカーを自分で運転して、ジムに到着。

運転席からヌッと降り立った。

「うわー、何か大きく見えるよ、確か俺と身長は変わらないくらいだと思ったけどなあ、フンイキが違いますね、フンイキが」

酒井がひと事のようにコソッと言った。

西島は一八十センチを少し超える身長以上に大きく見える。さすがに存在感があった。

西島はジムに着くとすぐに着替え、柔軟とシャドウを終えて、準備OKとなった。

まずはオサムジムがスパーリングパートナーとして呼び寄せている黒人選手と二ラウンドのスパーリング。

その後、いよいよ相模原ヘビー級トリオの順番になった。

西島は当然、休みなしでスパーリングを行うが、相模原トリオはラウンドごとに交代してリングに上がる。

一番手は市川だった。

-つづく-