9・N・Yへ武者修業Ⅱ
一週間も経つとジムの雰囲気にも慣れ、選手たちとも打ち解けるようになった。こんな脱線話しもあった。
ある日、ジムに毎日通ってくる白人の小学生がトレーナーの一人を指さして、いたずらっぽくこう一言った。
「あいつはホモセクシュアルだよ、みなよ、選手の身体をベタベタさわってるだろ、気を付けた方がいいよ」
「そう言えば俺も、やけに身体をさわられたような気がするよ」と浅利が一言った。
「浅利さん、気に入られたんじゃないの」と酒井が嬉しそうに言った。
「まずいな」
次の日、オラジデが何を思ったか浅利に、
「お前は結婚しているのか」と聞いてきた。
すかさず春日井が、「ヒー・イズ・ホモセクシュアル」
と一言った。
それを聞いたオラジデは、「オーッ」と言いながら、一歩大きく後ずさりした。
浅利は手を横に振りながら、「ノーノー、ジョーク、ジョーク」と慌てて言い返したが、オラジデは笑いながら向こうへ行ってしまった。
「決定的ですね」
と酒井がまたまた嬉しそうに言った。
また、ニューヨーク滞在中は外食だったので、夕食はみんなで連れだって出かけた。
市川は日本を発つ前から日常会話くらいはある程度、分かるようなことを言っていた。
ある時、二日続けて同じレストランへ行ったことがあった。
みんなメニューを選ぶのも面倒くさかったので、通訳の人間に、「昨日と同じステーキを」と頼んだ。
しかし市川は、「今日は違うものを頼もう」と言いながら、自分でウェイターに注文をした。
「市川さん、さすがですね、何、頼んだの」と酒井が聞くと、
市川は、「まあ、食べたいものをね」と答えたのだが、しばらくして市川の目の前に置かれた出されたものをみてみんな笑ってしまった。
出てきたのは、卵と前菜のような料理だけであった。
市川もかなりの大食漢である。どうみても腹が一杯になるボリュームではない、ミスオーダーだった。
少し待ったが、それ以上出てくる様子はなかった。
ほかのみんなはパクパクとステーキにありついた。市川は何ともさびしそうな顔をみせた。
春日井が笑いながら、
「お前、それだけで足りんのかよ、追加して頼めよ」と言うと、
「いえ、今日はあんまり食欲がないんで・・・」
と真面目な顔をした答えたので、一同また笑ってしまった。
結局、春日井が大きなステーキを残し、市川食べるか、と聞くと、
「ええ、いただきます」
と答えてパクパク食べ始めたので、またまた大笑いになった。
「見栄、張るんじゃねえよ」
ともあれ、ジムでのスパーリングは順調にこなされていった。
浅利と市川については、ショーンやジムのほかのボクサーもおおむねつぎのような印象をもった。
「アサリとイチカワはとてもタフだ。でもテクニカルな部分がまだ未熟だと思うよ。もう少し技術を身につけないとプロでは厳しいね、特にディフェンスの練習をすべきだと思う」
市川はフットワークを使う相手に課題が見えた。
ミドル級の選手とやったときはいつもスピードについていけなかった。
指示が飛んでも、身体が動かないし、翻弄されてしまった。左のフックもボディも不発だった。
ガードが甘いとスグにパンチが入ってくるし、収穫はパワー負けはしていない、ということぐらいだった。
「お前はとてもタフガイだな」と、スパーを見ていたオラジデが、しつこく食らいつく市川にそう声をかけていたことがあった。
浅利は、スタミナだけじゃダメだということを実感していた。
しっかりとした組み立てができないとなかなか優勢に立てない、基本がキチンとできていないとやっぱり難しい、ということがあらためて分かった。
デイフェンスをはじめ技術的なことを言ったらキリがないくらいあるがけど、イイ経験にはなった。
スタミナには自信があったが、自分よりもっとスタミナあるのもいて、上には上がいるもんだ、そんなことを思っていた。
滞在中、春日井はジムで通訳を介してオラジデとこんな会話を交わしていた。
「日本ではもっとたくさんへビー級の選手がいるのかい」
「いや、うちのを入れてもまだ十人もいないんだ」
「何でキミのところの会長はヘビー級の選手を育てているんだ」
「ヘビー級が好きなんだ。それにいつか日本人のヘビー級のチャンピオンを育てたいという夢があるからね」
「ほう、それは素晴らしいね。身体が大きいこと自体、ショー的な要素がある。大きな男の戦いはお客を喜ばせることができる。だからビッグマネーが稼げるんだ。私の見たところ、彼らはヘビー級ではなく、クルーザー級の方がイイと思うがね、それでもアメリカでやれば日本人ということで人気は出るだろうな。みんな体格は十分あるから、筋肉をつけて鍛えることだよ」
「会長の指導法のポイントは何なのか教えてもらえないか」
「ハッハッハッ。トレーニング、トレーニング、トレーニングあるのみさ、私はすべてのボクサーはチャンピオンになれるという持論をもっているんだ。強い精神をもって、厳しいトレーニングを積み続ければチャンスはやってくると思う」
「日本人のボクサーを誰か知っている?」
「いや知らない、残念ながら。ああ一人いた、ファイテイング原田だ。」「彼は素晴らしいボクサーだったね。ほかは知らないんだ、申しわけないけれど」
キングスウェイジムで、四人はそれぞれ十五~二十ラウンド前後のスパーリングを行い、帰国の日を迎えた。
オラジデは、「これからもなにか手助けできることがあればバックアップしたいと思っているよ、グッド・ラック」
といって送り出してくれた。
そして、
「トレーニング、トレーニング。トレーニングあるのみだよ」
とつけ加えて、大きな口を開け白い歯を見せてニカッと笑った。
空港へ向かう車のなかで、
「やっと慣れてきた時に帰国だもんね。ちょっと殴り足りないかなあ。はじめのうちに殴られた分、まだ全部返してないからな」
と酒井が言った。
「まあいいじゃないか。今回は経験を積むことが第一だったからな。デビュー戦の九月はみんなキレイな顔のままで帰ろうじゃないか」
と春日井がみんなに言った。
成田に着くと記者会見に臨んだ。
現地での成果や状況についての話が終わった後、九月に予定されるデビュー戦に関する質問に春日井はつぎのように答えた。
− デビュー戦はやはりニューヨークで行う予定ですか。
「プロモーターのリストが手に入ったので、これから会長と相談して決めよう思っているんですよ。九月にニューヨークでやって十二月に国内で二戦目をやる予定になっていますけどね」
− 四人同じ日にデビュー戦を行うことができるんですか。
「やりたいと思っているけど、興行次第でズレることも考えています。場所が違うことになるかも知れませんしね」
− どうです、みんな勝てるだけの力がついたでしょうか。
「今のレベルじゃどうですかね。これから半年間練習してどこまで上にいけるかでしょう。それこそ向こうの選手を選んでやれば勝てるけど、それじゃ先行きバケの皮がはがれてしまう。弱い選手ばかりと戦わせるつもりはありません。高いレベルで勝ちあがっていければと思っているんですけどね」
記者会見の後、解散になった。酒井と浅利と市川は同じリムジンバスに乗り込んだ。
「ニューヨークもカッコイイけどさ、帰ってきてなんかどっと疲れが出たね」
「俺はやっぱり日本がいいよ。ああいう派手なところは苦手なんだ」
「どこでデビュー戦やるにしてもさ、あと半年しかないんだよな」
「練習はじめてもう半年経ったこと考えると、デビューまであっという間だぜ、きっと」
「俺たち勝てるかな」
「そりゃ、やってみなけりゃ分からないよ」
春日井と福田は同じ横浜なので成田エキスプレスに乗り込んだ。
「福田、体重は百きっているんだろ」
「今、九八だと思うんですけど」
「一度、九十まで落とすつもりでやってみな。脂肪をなくして九十だな、そして上半身に今の倍くらい筋肉をつけて九五キロにするのがいいんじゃないか。お前も落とせばクルーザーでできないこともないけどな・・・。ヘビーで勝負するならもう少しパワーとスピードだ。脂肪が十キロあるってことはそれだけ重りを抱えて戦うことと同じなんだから、それを軽くしてバネをつけていくんだな」
「半年前と比べれば、今はだいぶ動きは軽いんですけどね。酒井なんかに比べて、元々そんなに食べる方じゃないから、まだ絞っていけると思います」
「デビュー戦勝ちたいなら、そうするんだな」
「アメリカもいいですけどね、僕はヨコハマでやりたいですね。地元だからプレッシャーもあると思うけど、やっぱり気持ちが違うと思うんです」
「そうだな、やれる日がくるといいな」