6トレーニング開始Ⅱ

十一月に入り、春日井が帰国した。

ジムにやってきた春日井は三人にこう言った。

「さあ、これからはじっくりみれるからな。福田が向こうで練習している間にお前らを強くするから。あいつがビックリするくらい強くなってやろうぜ。厳しくビシビシやるからな」

そして本格的な指導がはじまった。

当面の目標は、来年早々に予定しているプロテスト合格であった。

しかし、そうトントン拍子でうまくなっていくわけではなかった。

「市川、ストレート打ってみろ」

ミットをもった春日井が声をかける。

「ハイ」

身体を軽く左右に振った市川がバシッ、とストレートを打ち込む。

しかしパワーはそれなりにあるが、スピードがまるでなかった。

「オイ、本気で打っていいんだぞ」「ハイ」

バシッ。やっぱり遅い。

市川は自分ではそこそこのパンチだと思っていたのだが、春日井の目にはスローモーションのように見えた。

「何だお前、ハエが止まりそうなパンチだな、そんなんじゃ誰にでもかわされちゃうぞ」

「はあ・・・そうですか」

スパーリングをすると、パンチがくると目をつぶって、下を向いてしまうクセがあった。

「目をあけて、よけながらパンチを見るんだよ」

はじめの頃は目を ア・ケ・テ、という指示が出ない日はなかった。

リングを降りた市川に、いいか、よく見ながらよけてみろ、と春日井がミットをもちながらスッスッとパンチを送る。

市川は首から上が固まってしまったかのようにぎこちなく動いた。細めの目をずっとカーッと見開き、まばたきもしなかった。

「オイ、何やってるんだよ、まだたきはしてイイんだよ、まばたきは。よく見ろってことと違うんだろそれは」

市川は自分がやっていることに気づき、自身にあきれたように、苦笑いをした。

浅利は動きがカタイ。身体は締まった筋肉質なのだが、ボートとボクシングでは使う筋肉が違うのか、どうもスムースに動けなかった。ジャブもストレートもモーションが大きく、パンチの軌道が一定しない。腕と腰と足がひとつの流れで動かず、何度も注意されるが、ふたつできるとひとつができなくなってしまう。

「不器用だね、どうにも。全然ボクシングになってないな」

練習をはじめたばかりの頃はこんな調子だった。しかしみんなゼロからのスタートなのは分かっていたことだ。

練習はとにかく基本から徹底して行われた。ジャブならジャブだけのミット打ち、サンドバッグ、マスボクシング、スパーリング、これを繰り返した。ストレートも同様だ。焦らなくていい、と春日井はことあるごとにみんなに言った。

「初めは速く打とうとしなくてもいい。ゆっくりでも正しい打ち方を自分のものにすることだ。

ひとつひとつのパンチをゆっくり身体に、筋肉に覚え込ませていくんだ」

センスの良さは酒井が一番だった。言われたことをスグできた。飲み込みが早い。野球をやっていたせいか、腰の回転のキレが良く、リストも強い。

春日井が帰国してすぐ、留守中ヘビー級の面倒をみていた幡野が、

「春日井さん、酒井はイイですよ。もしかしたら福田以上の掘り出しもんかも知れませんわ」

と言った。

市川と浅利はどちらも不器用の部類だったが、一生懸命さがあった。何度も何度も同じ練習を黙々と繰り返した。決められた練習時間が終わっても、ジムの・大鏡の前でシャドウを続けていた。

浅利は引っ越してくるのが三週間遅れたが、何しろ同期の仲間だけには絶対に負けたくないと思っていた。

浅利は、春日井が口ぐせにしている、

「肉体は精神が動かす」

という言葉が好きだった。身体がいうことをきかなくなりそうなときでも、あと一ラウンド、あと一ラウンドと練習を続けた。

浅利は何をやってもマスターするのが一番遅い自分には、負けん気がないとだめだと思っていた。

スパーリングで打たれても、明日は絶対打ち返してやろう、部屋に帰って毎日そう思っていた。

こういう気持ちはボクサーにとって大切なものだ。ボクサーはまず、強くなりたい、負けたくないという気持ちがないと絶対に強くならない。

練習がキツイのならヤメてもいい。誰のためにやっているのかといえば会長のためでも、トレーナーのためでもない。

自分のためだ。

たとえ不器用であっても、ある時を境に、ガラッと化けることがある。またボクサーのなかには、練習ではあんまりパッとしないしスパーリンクでも打ち込まれるのだが、試合になると別人のようになって勝つ選手がよくいる。

デビューの後、試合を重ねるごとに強く、うまくなっていく場合も多いのだ。もちろん、その逆もあるが、不器用だからといってあきらめずにコツコツやる浅利には可能性があった。

練習前や練習後に、春日井は選手たちによくこんなことを話していた。

「今は誰が強いとか、うまいとかいう段階じゃなく、ボクシングというものがどういうものなのか、身体と頭で分かってくればいいんだ。どうだ酒井、面白いか、ボクシングは」

「まだよくワカランですけど、練習はツライけど面白いって感じですか」

「タイソンみたいになれますかね、僕は」

と浅利が聞く。

「それこそ今そんなことは分かるわけないだろ。とにかく基本を身につけてからだな、どういう、ボクシングが自分にあっているのか探していくのは」

当たり前のことだがトレーナーはまずボクサーに基本から教える。

特に春日井は基本を大切にした。

基本を身につけた後で、ボクサーはそれぞれ違うスタイルになっていく。

どんなタイプのボクサーに育てるか、どこを磨くか、それを見極めていく能力がトレーナーに求められる。

「ボクシングっていうのはボクサーが八十でトレーナーは二十なんだぞ。八十っていうのはボクサーの努力、才能を含めてそのくらい占める。俺はそう思うよ」

「そんなもんですかね」

「ああ。トレーナーは料理でいえば調味料だよ。かけすぎたらうまい料理はできないし、かけなくてもまずい。その種類と加減を考えるのが俺の仕事だ。うまい料理になるかならないかはお前たちにかかっているな」

「頑張りますから、うまい具合に調味料をふってください」と浅利が笑った。

「そりゃ、お前たちの心がけ次第。それにな、強くなるヤツは基本的な技術のほかに何かをもっているんだ。その何かっていうのはトレーナーでも教えることができない。もって生まれでものだからな」

「スタミナとか、パンチ力とか、反射神経とか、根性とか、何かがずば抜けてるって事ですか」

「そうそう。世界ランカークラスは、みんな光っているヤツの集まりなんだぞ。その光っている者同士がタイトルを争うわけだから。並大抵のもんじゃないぞ」

「オレ、いつになったら光れますかね」

と酒井がニコニコしながら開いた。

「デビューしてからのお楽しみだな、それは」