8.プロテストⅡ


プロテスト当日、二月四日は冬晴れだった。

前日、計量と筆記試験を済ませていた。筆記試験で落ちる受験者はまずいない。

それだけ筆記はカンタンな問題であり、実技試験であるスパーリングにすべてがかかっているとも言える。

テストは夕方の五時からはじまる予定だった。

朝のロードワークは休みにしてあった。二時過ぎ、ジムへ三人が集合した。

「何や、キンチョーしてんのか、ダイジョーブだって、普段通りやれば」と幡野が大きな声で言った。

「ええ、まあ」

三人ともモゴモゴと返事をした。

小田急線に乗っても、みんな普段より口数が少なく、ボクシングのことはひと言も出なかった。

新宿で中央線に乗り換えて水道橋に着いた。

後楽園ホールへ向かう陸橋を渡りながら「なんか今日はこの橋が長く感じますね」と酒井が言った。

酒井は三人のなかでは合格が確実とみられていたが、一番アガるタイプでもある。

ジムへきてから二ヶ月目に、後楽園ホールで相模原ヨネクラジム主催の興行があったとき、ヘビー級のスパーリングをエキジビションとして公開した。

そのときも結構アガってしまった。

今日はましてテストだし、今までテストと名のつくものでいい点とったことなんかないしな。

なんか審査される、というのはヘンに緊張するなあ、と酒井は思っていた。

それでも今回はヘビー級の選手がほかにいないため同門選手同士の巴戦である。

普通のプロテストのように、まったく知らないほかのジムの選手とぶつかるのではなく、いつものスパーリング相手とできる点で、不安は少ないはずだった。

「平常心、平常心」と最年長の市川が、明るい声で言いながら、ホールへ入っていった。

四時前の後楽園ホールは、その夜の興行の準備が始まっていた。

「今日はお前ら三人だけだからな、着替えたらすぐ始まるぞ」

控え室は、すでに試合に出る選手たちが入っているため、三人はホール内の医務室で着替えを済ませた。

「とにかく手数ですよね」と酒井。

「ああ思い出した。前に、ボクシング雑誌にプロテスト合格のポイントっていう特集があってさ、そこにもワンツーが基本、そして手数がひじょうに大事であるって書かれてたよ。それから前に出ること、な」と市川。

選手が着替えている間、春日井と幡野は非常階段の踊り場で一服した。

「初めての愛弟子のテストですから、春日井サンも緊張してるでしょうけど、よっぽどアガッてわけのワカランようにならん限り、大丈夫と思いますよ」

「そうだね」

春日井もまた現役の時とはまったく違う緊張感を味わっていた。大丈夫だと思っていても、もし、という不安がどうしてもぬぐい去れなかった。市川が顔を出した。

「着替え終わりました」

「じゃ、いこうか」

赤コーナーの花道の奥でバンテージを巻いていると審査員からゼッケンが渡された。

浅利が四八番、市川が四九番、酒井が五十番、となった。準備運動を始める。

春日井が「テスト直前にシャドウで身体をあたためるからな、とにかくいつも通り、いつも通りな」と今日のくち癖になっている「いつも通り」をまた言った。

客席にいた佐藤が選手に近づいてきた。

シャドウをはじめたみんなに「おお、速い速い、これなら大丈夫、心配ない。いいじゃないか、なあ酒井」と声をかけた。

佐藤は、このところのジムのスパーリングの様子をみている限り、まずみんな受かるだろう、そう思っていた。

五時ちょうど。審査員から声がかかった。

「それじゃはじめるから、まず四九番と五十番、リングに上がって」

まずは市川と酒井だった。春日井はビデオカメラをもって客席へ移動した。

市川には酒井がやけに落ちついているように見えたが、その酒井も実は「余裕なんて全然なかった」のである。

市川が念仏のように手数、手数、と心に言い聞かせているときゴングが鳴った。

いざはじまるとガードを気にするのを忘れてしまった。

頭のなかにあるのはワンツー、ワンツー。そして前へ、それだけだった。酒井のパンチが数多く飛んできた。コイツ、今日はやけに勢いがいいな、と思いながら市川はパンチを出した。

酒井の頭のなかも、手数、手数、であった。ガードがなっていないため、いつもはかわしている市川のパンチを何発かもらった。

酒井も今日の市川さんは気合い入っとるな、と思いながら負けるかっ、と打ち返した。

春日井はビデオを回しながら、ガードが甘いな、ほら、そこガードあげて、手出すばっかりじゃなくしっかりよけろ、と二人に向かって大きな声で言いたかったが、審査員の手前そうもできず、どうにももどかしかった。

しかし二人とも大振りは少なく、パンチがしっかりとした軌道を描いていたのが救いだった。

鐘が鳴って一ラウンドが終わった。二人の息はゼェゼェとあがっていた。

「えー、次は四九番はそのまま残って四八番とやって」。

市川と浅利である。

酒井は一ラウンド休み。三人の巴戦なので一人だけ、一ラウンド休憩できる。酒井は体力に自信がなかったので、テスト前からなんとかそのラッキーな順番に当たりたいと思っていた。

その通りになって内心ホッとした。

市川は前のラウンドでだいぶ疲れていた。

全体的に互角。

二人とも手数はあるのだが、やはりガードの甘さが目立った。

浅利がいつものパワーで押していく。審査員席から市川に向けて、「下がるな」「連打しろ」と声がかかった。

しかしそれどころじゃない、と市川は思った。

なにしろ思いのほか疲れてしまって身体がいうことをきかなかったのだ。

最後は酒井と浅利である。

一ラウンド休みが入ったため酒井の動きはいい。ワンツーだけでなくフック、アッパーも出る。

浅利は二ラウンド目で疲れていたため、主に酒井のパンチをガードしよう、と思っていた。

そのくらいの冷静さはあった。

ゴングが鳴ってテスト終了。赤コーナーの花道の奥へ戻って、グローブをはずした。

「どうでした」

「ガードがなあ、あれだけ打たれたからな」「手数が大切だって言われたから・・・」

「だからって審査員がガードをまるっきり無視するわけないじゃないか」

そんなことを話していると、コミッションの人間がやってきて大きな声で言った。

「全員、合格」

一瞬、みんなキョトンとした。

合格発表は翌日というのが通例だったので、ほんの十分ほど前のテストの結果がこんなに早く出ると思っていなかったのだ。

三人は突然の発表に、嬉しいような照れたような表情になった。

「四八番はちょっと頭を下げすぎるから、あれだけ注意するように」浅利が神妙な顔でうなずいた。

練習開始から、市川と酒井は五ヶ月、浅利は四ヶ月でプロテスト合格というのは、異例の速さであった。

「よーし、よくやった」

佐藤がみんなに声をかけた。

練習開始から四、五ヶ月でプロテスト合格というのは、予想以上の早さだと佐藤は思っていた。

それに市川も合格できてよかった。

市川はプロテスト受験の年齢制限の三十歳まであと九ヶ月しかない。

酒井と浅利はもし落ちてもまだチャンスはあるが、市川が受からなかったらもうチャンスはないかも知れなかった。

だから何とかして合格させてやりたかったのだ。

佐藤はお祝いに食事でもいくか、と誘ったが、三人ともえらく疲れていて「あんまり今は食べれません」というので、それじゃ後日ということになり、着替えを終えて、後楽園ホールのそばの喫茶店でジュースで乾杯した。

フーッとひと息ついて春日井がみんなに向かって言った。

「まあ、とにかく良かったよ」

「審査員席から声が出て、その通りやろうと思ったんですけど身体が動かなかったですよ。緊張しまいと思ってはいたけれどやっぱり硬くなっていたのかな。それにしても酒井がはじめにえらい勢いで打ってきたから、応戦しようと思って」

「僕は声なんか聞こえんでしたよ。手数ばっかり気になっちゃって、市川さんとはほとんどノーガードで打ち合いましたね。浅利さんはあんましアガっていなかったですよね」

「そんなことないって。自分じゃアガっていないつもりでも、いつもと違ってたからなあ。でも良かったよ、俺一人だけ落ちなくて」

二週間後、四人のライセンスが一緒にジムに届いた。

晴れて相模原ヨネクラジムからヘビー級のプロボクサーが四人誕生した。

しかしこれはまだ、この先長く続く道のりをあるいていくために必要なパスポートにすぎないのだ。

四人もそのことは十分に分かっていた。