一番手は市川だった。
市川は、いつものように落ち着いているように見えた。
やや頭を下げ、広い肩を丸めるようにノシノシと西島へ一直線に向かって行った。
春日井は内心「おっ向かって行ったな」と拍手をしたい気分だった。
一番手を市川にすることははじめから決めていた。
浅利はまだ二ヶ月だし、酒井は少し気の小さなところがある。
市川ならあまり動じないで普段の力が出せるんじゃないか、そう思っていたのだ。
期待通りだった。もちろん西島と互角に渡り合うのは無理だ。
市川のパンチはほとんどブロックされるか、ダッキングでかわされた。
西島はあまり打ってこない。市川のパンチが流れてガードが空いたところへパンチを軽く合わせてくる。
渡辺会長から声がかかる。
「二十パーセントでいい、十パーセントの力でいいよ」「打ち抜くな、コワレちゃうぞ」
「打たせてやれ、打たせてやれ」
二分すぎると、市川は「ヒュー、ハー、ゼエ」と息が上がり、口を開いた。
ふだん浅利や酒井とスパーの時はそんなことはないのだが、やはりプレッシャーがあった。
片や西島はほとんど息があがらない。
二番手に浅利。
いつものような勢いがない。
ジャブ、ワンツーは出るものの、腰がややひけてしまい距離が遠いし、届いたパンチには正確さがなく、いずれもブロックされた後、ジャブをポンポン決められ、顔が紅潮し、三分通して見るべきところなく終わった。
三番手は酒井。
市川より速さがあり、フットワークを使いながら、パンチを打ち分けながら連打も出た。
三人のなかで一番動きはいいいが、西島に見切られていた。やはりクリーンヒットと呼べるパンチはなかった。
酒井はこのあと二ラウンドこなしたが、だんだん疲れがみえ、ヘッドギアでぐっと締め付けられた口からシューハーという大きな息が吐き出され、足もベタ足になり追うのがやっとの状態になってしまった。
市川ももう一ラウンド挑んだが、中盤、市川がコーナーに詰められ低い姿勢をとったとき、後頭部に西島の右フックが入り、思わず倒れてしまった。
ダウンではないが足元がフラフラしていたため春日井がストップをかけた。
トリオで計六ラウンドのスパーとなったが、やはり西島がスピード、スタミナ、テクニックすべてで圧倒、という感じになった。
三人はスパーリングを終え、記者たちに印象を聞かれこう答えている。
酒井
「もう速さが全然違いました。プレッシャーもあったし、パンチは重いと思わなかったですけど、本気で打ってなかったでしょう。本気だったらこっちのパンチも当たらなかったと思いますよ。でも楽しかった。またやりたいですよ。もう、呼んでもらえませんかね」
市川「こっちだけバタバタしてた感じですね。頭の後ろにパンチをもらったのは下を向いてダッキングする悪いクセが出てしまって・・・。さすがにフラフラしました。コンチクショーって思いますよ」
浅利「僕はジャブとワンツーしか打てるパンチがないですから、洋介山はスピードがありますね、パンチが当たりませんでした。さっきトレーナーにお前が一番ビビッていたと言われまして、自分じゃそれほど威圧感もコワサもなかったんですが、そう見えました?」
その浅利はスパーを終えた後、サンドバッグを打つ西島の側に行って何か話しかけ、一緒に記念撮影までした。
「何やアイツ、カメラまで用意しとったんか。ライバルっちゅう気持ちが少しでもないんかい。ダメや、あれじゃ強くならん」
と幡野が苦笑いしながら言った。
何聞いてたんだよ、と聞く市川に、西島の練習は、朝走って、ジムワークを二回やって、ウエイトをやってるって言ってたとか、向こうから「みんな一人で暮らしているんですか」と聞いてきたので「そうです」と答えたら「いいですね」と言ったとか、浅利はやけに嬉しそうに答えた。
春日井は、まあ出来としてはこんなもんだろう、と思い、帰りの電車のなかでみんなに一言った。
「全部パンチがかわされて、左だけで遊ばれるかと思ったけど、上々だよ。向かっていったしな。渡辺会長は十、二十の力でって言ってたけど洋介山もムキになってたとこもあったしな。向こうは三年でこっちは三ヶ月なんだから違うのは当然だ。今日は、強い奴と向き合ってその威圧惑が分かればいいんだ」
当日、駆けつけられなかった佐藤はその翌週、ジムのトレーナールームでビデオを観た。
新聞には「相模原ヘビー級トリオ返り討ち」なんて書かれていたから、よほどやられたのかと思っていたのだが、ビデオを観るかぎりでは、なかなかよくやっていた。
春日井の言うように、前へ向かっていっているから合格点だろう、そう思った。
「クリーンヒットも二、三発はあるじゃないか。いい経験になったよ、なあ」
「そうですね、威圧感はありましたけど、追いつけないとは思いません」と市川が珍しく強きの発言をした。
「おおそうか、頼もしいねえ。福田も帰ってくることだし、これからは四人で打倒洋介山を目標に頑張ってくれ」
佐藤がこの日ジムにきたのはアメリカから福田が帰ってきたこともあった。
福田は三時過ぎにノソッとやってきた。
おととい帰国してから練習にきたのはこの日がはじめてだった。
福田が姿を見せるとみんなはえらく驚いた。
なにしろ久しぶりに見る福田はすっかりスマートになっていたからだ。
「おっ約束通り絞ってきたな」と佐藤が言った。
福田がマイアミのアンジェロのジムに一人残って練習をしたいと言ったとき、体重だけは落として帰ってくるようにと、ひとつだけ約束してきた。
「なんだかすごくやせて見えるな。何キロになった」
「百二です」
スマートといっても百キロはあるが、それでもだいたい三十キロほど絞ってきたことになる。
マイアミでの練習メニューは当初のものと大きく変わりはしなかったが、福田は、とにかくボクシングをできる身体にしよう、そう思ってロードワークはしっかりやった。
周りに騒がれることとか、気にしないで、自分のペースでじっくりやっていきたい、そう佐藤に話した。
それを聞いて、向こうで一人で練習して考えて何か吹っ切れたものがあればいい、と佐藤は思った。